歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版足利公方実紀(連載第17回)

二十一 足利義昭(1537年‐1597年)

 室町幕府最後の将軍となった足利義昭は12代将軍義晴の次男として生まれ、幼少の時に興福寺の僧となったが、兄の13代将軍義輝が永禄の変で三好三人衆らに暗殺され、三人衆が擁立した14代義栄も一度も入京できず死去するという異常事態の中、にわかに将軍のお鉢が回ってきた。
 永禄の変の後、反三好派幕臣に援護されて奈良を脱出、還俗した義昭は上洛の機を窺う。最終的に、当時朝倉氏家臣だった明智光秀を介して、美濃の実力者として台頭してきた織田信長接触し、彼の支援も取り付けたうえ上洛を果たし、永禄十一年(1568年)、15代将軍に就任する。
 しかし信長の力を借りたことで、以後の義昭は三歳年長で「室町殿御父」の称号を帯びた信長との関係に振り回されることになる。当然にも幕府の再興を構想していた義昭と自ら天下人たることを狙っていた信長の思惑は初めから食い違っており、両人の衝突は避け難かった。
 義昭の権限を制約して傀儡化しようとする信長に対し、義昭の不信感は募る。義昭は仇敵の三好三人衆とさえ連携し、信長包囲網を形成して対抗した。元亀三年(1572年)に信長が実質的な挑戦状である十七か条の意見書を送り付けるに至り、両人の対立は決定的となり、義昭は挙兵する。
 しかし長く仏門にあった義昭が寄せ集めの包囲網で百戦錬磨の信長を撃破できるはずもなく、頼みの綱だった武田信玄の死も打撃となり敗北、京都を追放される。以後、京都を含む畿内の支配権は信長が掌握する。この天正元年(1573年)をもって室町幕府は実質上終焉したものと解されている。
 とはいえ、畿内以外の地では義昭の支持勢力はまだ健在であった。義昭はそうした勢力の一つ毛利氏を頼り、その領国備後の鞆に逗留する。ここで義昭は毛利氏の庇護のもと、信長追討・復権を目指して外交工作を展開するため、「鞆幕府」とも呼ばれるが、実態は中国地方の実力者毛利氏の持ち駒であった。
 義昭に再びチャンスがめぐってくるのは、他でもない本能寺の変で信長父子が自害に追い込まれ、織田政権が崩壊した時である。信長追討の意思が固いことや、変の実行者である明智光秀との旧主従関係から、義昭自身が変の黒幕であったとする説もあるが、確証はない。
 ただ、信長討伐を決意した光秀が義昭を完全に蚊帳の外に置いたとも考えにくく、義昭が事前に何らかの情報を得ていた可能性は高いと思われる。しかし光秀が変の直後に羽柴秀吉に討たれ、新たに秀吉が政権を掌握したことで義昭の計算も狂ってしまう。
 その後、まだ形式上は将軍の地位にあった義昭は秀吉側と折衝して上洛の機を窺うが、老獪な秀吉は義昭を体制に取り込みつつ、無力化することを考えていた。その結果、義昭は最終的に天正十六年(1588年)に将軍辞職、山城国にわずか一万石の領地を与えられ、秀吉の御伽衆編入という名誉職待遇となった。
 ちなみに義昭は秀吉と同年の生まれで、没年は一年早く、その生涯はほぼ重なっている。天下人だった者が一庶民から成り上がった同年齢の天下人の臣下に下ったのは、まさに下克上の時代にふさわしい歴史の皮肉であった。