歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版足利公方実紀(連載最終回)

二十三 足利義尋(1572年‐1605年)

 足利義尋〔ぎじん〕は最後の室町将軍足利義昭の庶長子であるが、義昭は正室を持たなかったため、義尋が嫡男扱いとなる。だが、彼は1歳の時、父が信長に京都を追放され、幕府が崩壊した後、信長の人質となったうえ、おそらくは将軍家嫡流の断絶を狙った信長の策により、直ちに出家させられた。
 僧籍に入った義尋は、若くして興福寺大僧正にまで栄進したが、突如還俗して、後に宮中に出仕し後陽成天皇の妃となる古市胤子と結婚し、二人の息子をもうけたとされる。還俗時期は、第一子の生年(1601年)からすると、父義昭が没した慶長二年(1597年)以降かと思われる。
 突然の還俗理由は定かでないが、大名として遇され、秀吉の御伽衆に編入されていた父の死没を受け、継嗣として改めて足利宗家再興を図った可能性もなくはないし、彼にはその資格が一応はあった。
 だが、秀吉も関ヶ原の勝者となった家康も、足利氏後裔としては古河公方家の流れを汲む喜連川氏を立て、義尋には関心を示さなかった。そして義尋自身も慶長十年、32歳にして没してしまうのである。結局、義尋の二人の息子たちも仏門に入り、生涯非婚を通したため、義昭系の足利将軍家嫡流は断絶することとなった。
 義尋については同時代の史料も乏しく、将軍子息でありながら、その生涯・人物像も不詳で影のような存在である。室町幕府滅亡期に将軍庶子として生を享けた者の悲運を体現していたのであろう。ほぼ同世代の一門女子ながら、喜連川氏の実質的な祖となる足利氏姫とは命運が分かれた。

二十四 足利氏姫(1574年‐1620年)

 古河公方家に男子継承者なく、天正十一年(1583年)の5代公方足利義氏の死をもって後任公方は任命されなかったことは前回述べたが、家臣団は義氏の存命中の9歳の娘氏姫を城主として擁立した。この時点では、関東の支配者は後北条氏であったから、おそらく氏姫擁立には後北条氏の了解もあったのであろう。
 しかし、周知のとおり、後北条氏天正十八年(90年)の豊臣秀吉による小田原征伐により滅亡し、秀吉の天下となる。その際、秀吉は氏姫に対して古河城立ち退きを命じつつも、古河公方家の存続は認め、天正十九年(91年)、氏姫を旧小弓公方足利義明の孫に当たる足利国朝と結婚させ、古河公方家の再統合を実現させた。
 ただ、この政略結婚はうまくいかなかったようで、秀吉から新領地として一族本貫にも比較的近い下野の喜連川を安堵され、入部した国朝に対し、氏姫は古河に固執・在住し続け、別居状態となった。
 そうするうちに、文禄二年(93年)、国朝が秀吉の朝鮮出兵に参陣する途中で死去したことから、氏姫は国朝の弟で氏姫より六歳年下の頼氏と再婚させられることとなった。これも政略婚だったが、二人の間には、慶長四年(1599年)に嫡男・義親が誕生している。
 頼氏は慶長五年の関ヶ原の戦いには参陣しなかったが、勝者の家康に祝賀使を派遣したことが評価され、秀吉から安堵された3500石に1000石加増のうえ、喜連川藩としての存続を許され、初代藩主となる。
 しかし、氏姫は相変わらず喜連川入りせず、生涯を閉じるまで息子の義親、孫で2代藩主となる尊信とともにその御所周辺300石余りに切り縮められた古河の領地に在住し続けた。これは家康に対する無言の抵抗とも言える行動であったが、天下人といえども、足利氏直系の氏姫らを強制的に転居させることをあえてしなかった。
 こうして信長、秀吉、家康と「三英傑」すべての治世を経験した氏姫は時の天下人の政略によってではあったが、分裂していた古河公方家の統合者となり、かつ足利氏の流れを汲む近世喜連川氏へのつなぎ役を果たした中世足利氏最後の実質的な当主と言える人物であった。
 ところで、家康が喜連川氏を丁重に遇したのは、源氏長者を仮冒していた徳川氏がその不十分な格式を補うためにも、なお関東一円に威信を残していた「純正」な源氏系名門足利氏の存在を必要としていたこともあったと考えられている。
 そのため、喜連川氏は石高上は旗本級にもかかわらず、徳川氏とは主従関係にない客分的な地位のまま参勤交代義務も免除された特例的な大名格(享保年間以降は諸侯待遇)という半端な地位に置かれ続けたのであった。
 ちなみに、「純正さ」という点では、室町幕府11代将軍足利義澄の次男義維の末裔に当たる平島公方家のほうが足利将軍家直系と言えたのであるが、こちらは以前述べたとおり、蜂須賀氏の徳島藩客分にとどまり、その存在を迷惑視した藩からも冷遇されたうえ、19世紀には京都へ退去し、紀州徳川家の援助などに頼って生計を維持する窮状に置かれたのとは明暗を分けた。
 その対照性は明治維新後まで続き、実子で継いできた平島氏はすでに浪人化していたこともあり、華族への叙任努力も実らず、士族身分すら得られないまま、京都近郊で帰農し、平民身分となったのに対し、養子で幕末までつなぎ、血統的には絶えていた喜連川氏は新たな身分制度で子爵に叙せられ、近代足利氏の祖となった。