歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

抵抗の東北史(連載第13回)

十二 東北最後の抵抗

 江戸全盛期の東北は、他の地方と同様、幕藩体制の中で平穏が保たれ、もはや大きな抵抗の地ではなくなった。しかし、天明天保と二つの大飢饉では多数の犠牲を出し、百姓一揆の頻度は高かった。
 特に南部氏の盛岡藩は冷害が多い上に、最重要の換金作物であった米作に偏向したモノカルチャー型農政のゆえに、飢饉に弱く、全国でも最大の百姓一揆多発藩となった。
 一般的に、東北地方は米作不適地も多い中、諸藩主は他の地方と同様、米作に収奪基盤を置く農耕封建領主であったから、東北では百姓一揆が多発する傾向にあった。こうした傾向にはまた、東北地方のバックボーンである抵抗性が少なからず関与していたかもしれない。
 東北地方の抵抗性が最後にまとまった形で表出されたのは、幕末から明治維新にかけての戊辰戦争の時であった。戊辰戦争には様々な局面があったが、中でも最大級のものが旧東北・北越諸藩で構成する奥羽越列藩同盟による抵抗戦争であった。
 中心となったのは、幕末に佐幕派の中心にいた「御家門」の会津藩と江戸市中取締の任にあった譜代藩の庄内藩である。両藩は1868年4月に同盟を結成し、当初は最大朝敵とされた会津、庄内両藩の赦免要求を中心に動いた。
 しかし、会津藩の謝罪拒否姿勢や維新政府軍参謀・世良修蔵の暗殺により、情勢は開戦に傾き、5月には奥羽列藩同盟、続いて北越6藩を加え、奥羽越31藩で構成する奥羽越列藩同盟が結成される。
 同盟は維新政府に楯突いて仙台に逃亡してきていた皇族の北白川宮能久〔きたしらかわのみやよしひさ〕親王を盟主に迎え、総裁には仙台藩伊達慶邦〔よしくに〕、米沢藩主上杉斉憲〔なりのり〕が共同で就いた。
 これは軍事同盟を越え、事実上対抗政権の樹立に等しいことであり、実際、同盟は一定の政府機構を整備していた。親王は君主的に振舞い、この時期、外国からは「二人の帝」が並立しているとみなされていた。こうなると、もはや維新政府との激突は避けられなかった。
 かくして、東北戦争が開始される。東北戦争は戊辰戦争の中でも熾烈なハイライトであり、特に抵抗の中心となった会津では数千人の死者を出す激戦となった。
 しかし圧倒的に多くの旧藩が新政府軍側に付く中、同盟側に勝ち目はなく、旧安東氏の流れを汲む小藩の三春藩が最初に脱落・降伏したのを機に、同盟諸藩の降伏が続き、68年9月末までに同盟軍は瓦解、戦争は長期化することなく終結した。
 戦後処理として幕藩体制時代の封建的な国制は解体され、廃藩置県を経て現行東北6県体制に収斂された。以後の東北は、表面上は他の地方と変わらない本州北部の一地方として、近代日本の中央集権体制の中に組み込まれていくのである。