歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

抵抗の東北史(連載最終回)

十三 近代東北の忍耐

 明治維新後の東北は、江戸幕藩体制から解放され、形の上では大日本帝国の近代的中央集権体制の中に組み込まれていき、もはや抵抗の地ではなくなった。
 幕藩体制時代の東北諸藩は、当時の農業技術では十分な生産力が確保できない寒冷地で財政を維持するため、苛烈な収奪をしがちであった一方、商業の発達も十分でなかったことから、東北地方の開発は遅れていた。幕府は藩領地の経営を基本的に藩に委任することが基本であったから、自ら東北開発に注力することはなかった。
 後を引き継いだ明治政府は中央集権制を活用して東北開発に乗り出すことも可能であったが、戊辰戦争時の東北の集団的抵抗の遺恨は長く尾を引き、薩長主導の明治政府から旧東北諸藩は排除されていたため、明治政府の東北政策もまた決して積極的なものとは言えなかった。
 それでも、1878年にはいわゆる「土木七大プロジェクト」の一環として、大動脈関東につながる東北地方の水運網整備に乗り出している。鉄道網も当初は私鉄であったが、1891年までに東北最大の幹線となる東北本線が青森まで全通している。また八幡製鉄所より早い1880年には釜石製鉄所が設立され(後に民間払い下げ)、1907年には東京、京都に次ぐ日本で三番目の帝国大学として東北帝国大学(現東北大学)が開学されるなど、産学面での投資もそれなりに行なわれた。
 とはいえ、本州でも辺境地としての従属的性格は残され、東北地方に殖産興業政策の恩恵はなかなか及ばず、むしろ関東方面への出稼ぎ労働者の供給源となる傾向が明治期から現れた。
 稲作に関しては、品種改良の努力によって、明治以降、東北での生産力が向上し、有数の米所に成長していくが、常に冷害との戦いであり、昭和に入っても1931年の大冷害を機に、「最後の飢饉」とも言われる東北昭和大飢饉に見舞われた。その余波が続く中、1933年には死者・行方不明者3000人以上を出す昭和三陸地震津波が追い打ちをかけた。
 帝国が満州侵略作戦により傀儡国家・満州国を立てると、従来型の内地出稼ぎではなく、新天地を求めて満州へ移民・入植する人も増加した。
 戦後になると、農地解放は東北でも寄生地主制度を解体し、遅ればせながら中央政府による東北工業化のプロジェクトも動き出すが、東北の従属経済化傾向は本質的には是正されず、関東地方の経済発展には遅れをとった。またも東北は関東方面への出稼ぎ労働者の供給源となった。出稼ぎ移住者の増加で人口減にも直面し、過疎化が進んだ。
 高度成長が一段落した後、第三次産業の発達により、東北もようやく自立的な発展を見せ始めていた中、2011年3月の東日本大震災における甚大な津波災害は、東北太平洋沿岸部に大規模な人的損失を伴う壊滅的打撃をもたらした。
 震災からの復興が東北被災地の新たな長期課題となったが、生活再建への中央政府の取り組みは被災民を満足させるレベルに達しておらず、相変わらず東北軽視の傾向が見え隠れしている。中でも、関東地方の巨大な電力需要をまかなっていた福島第一原子力発電所の被災事故の影響を被った福島県を中心に、東北は復興遅延による人口流出という新たな危機に直面しているが、現代の東北人は抵抗ではなく、忍耐によって困難を克服しようとしているかのようである。
 かつて多くの内戦や反乱の動力となった東北的な抵抗の精神は、近代以降にあっては忍耐という無言の抵抗に形を変えて受け継がれていると言えるかもしれない。