歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

日本語史異説―悲しき言語(連載第19回)

八 日本語の分化と統一

 ある言語が支配的言語としていったん定着すれば、日常の口語としても常用され、しかも口語体の性質として方言分化が必至である。日本語の場合は、前段階の倭語の段階からすでに方言分化は進行していたが、日本語がひとまず確立された中世以降になると、方言分化も確固としたものとなった。
 その結果、前回見た琉球方言のように、部分通訳を必要とするほどの強方言も生じた。おそらく、今日でも部分通訳を要する東北地方の方言も北方の強方言として発達したものと思われる。

 こうした方言分化は、中世以降の封建的地方分立の時代には格別の問題を生じなかった。この時代、人々は自身が属する封建領土の属民・領民という意識しかなく、また人々の交渉も封土内とせいぜいその周辺地域にほぼ限局されていたから、全土的共通語は必要とされなかったのであった。
 ただし、中央言語としては、やはり天皇の伝統的な所在地であった京都の方言が高い権威を持っており、首府江戸の方言も関東の一方言に過ぎなかった。その状況が一変するのは、明治維新後のことである。

 維新政府が急いだのは、封建的分立体制の完全な解体と、西洋的な国民国家の建設であった。国民国家は全国民にとっての共通語を必要とする。ところが当時の日本語の方言差は、近代的な軍隊内で出身地の異なる兵士間では言葉が通じないほど大きかったとされ、指揮命令系統の確立にも障害が出た。
 それだけが理由ではないにせよ、政府は「標準語」の確立を急ぎ、その際、京都方言ではなく、江戸方言が基礎に据えられた。そのうえで、学校教育を通じた「方言矯正」の必要性が叫ばれ、方言使用者への罰として「方言札」が利用されるなど、方言抑圧政策が敷かれた。*特に琉球「処分」(併合)後の琉球では、琉球方言抑圧策が強化された

 このようにして、今日の標準語の基盤が築かれていくが、学校教育が十分普及せず、かつ全国的なマス・メディアが未発達な間は、標準語の普及も不十分であり、反面、方言はそれぞれの地方で残存し続けたのである。
 とはいえ、日本では政府が言語の「標準」を定め、国民に教化するという国語政策が当然のこととして定着した。このことは、政府当局が国語政策を通じて国民の思考様式や思考内容まで統制することを可能にしている点には、注意が必要である。