歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第11回)

十一 徳川家綱(1641年‐1680年)

 徳川家綱は3代将軍家光の側室との間に生まれた長男であったが、比較的遅く出来た子であったため、父死去を受けて将軍に就任した時は、まだ10歳であった。幼少の身で将軍位を継承できたのは、父の代までに幕府の権力基盤が安定し、事実上王朝化していたことの表れであった。
 とはいえ、就任直後には由井正雪らが間隙を突いて倒幕クーデター(慶安の変)を企てたのに引き続いて、翌年にも浪人・別木庄左衛門らによる老中暗殺謀議(承応の変)が起きた。
 いずれも関係者の密告により謀議段階で摘発されたのは、この時代までに幕府の公安機構がかなり整備されていたことを示しているが、こうした倒幕謀議続発の背景には、先代まで幕府権力確立のために行われていた諸大名に対する改易処分の多発によって大量の浪人が生じており、そうした浪人層の不満が鬱積していたことがあった。
 これを反省し、家綱の代にはこうした強権的な大名統制策が見直されたため、家綱の時代を武断政治から文治政治への転換期ととらえることもある。ただ幕府の本質が武断主義の軍事政権であることは以後も変わりなく、祖父の2代将軍秀忠時代に始まる「法と秩序」政策が緩和されただけのことである。
 逆に言えば、家綱の時代には「法と秩序」政策の緩和を可能にするだけの幕府権力の確立が見られたということであって、それを象徴するのが、寛文四年(1664年)に全国の大名に対してその所領安堵の証明として発せられた領知朱印状と、翌五年に公家・寺社を対象とした同様の領知目録の発付であった。
 治世後半には、鎖国政策の経済的土台としての農業生産の安定のため、本百姓没落の弊害を来たす農地分割相続を制限し、宗門人別改帳のような仏教寺院を利用した住民管理制度も整備した。この時代にはまた、諸国山川掟の制定のような治水政策、商人・河村瑞賢を起用した新海運路の開拓など経済政策の発展も見られ、幕府の政策立案・遂行の能力が向上した。
 そうした政策面での発展は、幕閣から「左様せい様」とあだ名されるほど、政務を基本的に幕閣合議に委ねる姿勢を示した家綱の立憲君主然とした態度と、その結果として形成された官僚制の萌芽的な集団指導体制の成果であった。
 ちなみに、家綱個人の性格としても、流刑人の食糧を心配したという幼少時の逸話に示される温情や温厚さが伝えられており、いささか時代錯誤的な用語で言えば「リベラル」な一面も窺え、そのことが「文治政治」への転換と総括されるゆえんかもしれない。
 健康面でも父以上に病弱で、武家的ではなかった。結局、実子は生まれなかったため、末弟の館林藩主・徳川綱吉を養子に取って後継指名し、延宝八年(1680年)に38歳で死去した。