歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第18回)

十九 松平定信(1759年‐1829年)

 10代将軍家治死去から間を置かずに田沼意次が追放されると、入れ替わりの形で翌年、老中首座・将軍補佐として新たな幕政指導者となったのが、松平定信であった。
 彼は当時、白河藩主であったが、元来は田安徳川家家祖・徳川宗武の七男で、8代将軍吉宗の孫に当たる。そのため、理論上は将軍継承権者の一人であったが、定信は年少の時に授姓松平氏である久松松平氏白河藩主の養子となっており、田安家当主の兄が早世した際にも、呼び戻されることはなかった。
 定信は兄が死去した時に田安家復帰を狙って一度養子縁組解消を願い出るが、幕府は許可しなかった。田安家に戻っていれば、将軍世子家基が夭折した際に将軍候補となる可能性もあっただけに、定信は当時幕政を主導していた田沼意次が自らの田安家復帰を阻止したものとみなして、個人的にも田沼を敵視するようになったようである。
 結局、定信は既定どおり白河藩主に就任し、地方政治からスタートする。老中就任前の藩主時代には天明の大飢饉に際して飢餓対策で手腕を発揮しており、若くして行政的な力量を見せていた。
 定信のような将軍直系者が譜代大名からの登用を慣例とする老中に就任することは異例であったが、法的にはすでに徳川家を離れ譜代大名に転出していたので、老中の形式的な資格要件は満たしていたし、力量的にも老中には適格とみなされた。
 年少の11代将軍家斉の下、定信が事実上の幕府最高執権者として主導した政治は後世「寛政の改革」と称され、江戸時代三大改革の一つに数えられるが、実際のところ、定信の「改革」とは脱田沼政治ということにほぼ尽きる。定信は個人的な怨恨とは別に、イデオロギー的にも「田沼イズム」には批判的であったらしく、田沼時代の政策を覆すことに注力した。
 定信はイデオロギー的には朱子学を奉ずる保守主義者であり、そのキーワードは「統制」である。従って、彼が最も力を入れたのは思想・言論統制の強化であった。吉宗時代以来、低調になっていた体制教義・朱子学の再興を図った寛政異学の禁はその発露である。
 経済的には田沼流の重商主義を排し、帰農令による農村の再建を図った。また人足寄場で無宿人や浮浪人に授産したのは労働政策の萌芽とも言えるが、定信にとってはこれも治安統制の意味合いが強かった。
 一方、飢饉対策が政治の出発点であった定信は七分積金の制度を創設し、江戸の公共設備の修繕などに支出させたが、これは公共投資の萌芽とも言える新規制度で、以後幕末まで厳格に運用され、明治維新後の東京に引き継がれ、インフラ整備に転用された。
 こうした統制的な定信の政治は「改革」というよりは反動であり、彼の官僚的な性格とともに、幕府でも市中でも不人気であった。定信は寛政五年(1793年)、突如辞職を命じられ、幕府を去った。定信失墜の直接のきっかけは政治路線のゆえではなく、次の項で触れる朝幕関係を揺るがす一件(尊号一件)の対処方針をめぐって将軍家の不興を買ったことによると見られるが、彼の不人気も早期の失墜を後押しした。
 こうして定信による「寛政の反動」は六年ほどで終わり、定信自身は二度と幕政に復帰することはなかったが、定信の敷いた基本路線は「寛政の遺老」と呼ばれた定信側近グループによって継承され、19世紀に入り旧田沼派が復権した一時期を除き、幕末までおおむね幕政の既定路線として定着するのである。