歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第38回)

第八章 「蘇我朝」の五十年

(4)聖徳太子の実像

聖徳太子架空説
 蘇我馬子と言えば正史上必ずコンビで語られるのが、有名な聖徳太子である。『書紀』によると、聖徳太子用明天皇の皇子で、推古天皇の甥に当たり、かつ女婿でもあることから、推古の皇太子兼摂政として政治の全権を委ねられたとされる。
 しかし、『書紀』の聖徳太子像は、生まれて程なく物を言ったとか、成人してからは一度に十人の訴えを聞き取れたとか、その他現実離れした聖人伝説に満ちている一方、摂政として全権を掌握していたというわりには具体的な実績に乏しく、実在性そのものに疑念が生じても致し方ないところである。
 実際、従来から在野の古代史家を中心に聖徳太子架空説が提起されており、前出の石渡氏もその一人である(同氏は聖徳太子蘇我馬子及び用明天皇の分身像と解する大胆な説を提唱しているが、ここでは立ち入らない)。近年は、講壇史学の側でも聖徳太子架空説が現れ、論争となっている。
 とはいえ、『書紀』の聖徳太子は一から造作されたものとも思われない。推古天皇‐馬子大臣という『書紀』の筋書きを前提とする限り、女帝の聖人のような義理の息子は、心もとない女帝が全権を委ねる後継者にふさわしいし、馬子にとっても生前親しかったらしい甥の故・用明天皇の子で、仏教にも深く帰依していた聖徳太子は利用しやすい相手であり、好都合であったろう。
 単に伝説性が強いというだけでは、架空と断定することはできない。それは、実在人物のある一面だけを取り出して、何らかの狙いに下に誇張したものかもしれないからである。
 『書紀』の聖徳太子の設定に不自然さがあるとすれば、それは20歳前後の青年が叔母の摂政になったというプロットであろう。これは太子の天才的早熟さを強調するための作為と見られるが、逆に叔母兼義母が年若い甥兼女婿の摂政となったという筋書きのほうがまだもっともらしく見えたであろう。実際、太子がそれほどに早熟の天才的聖人であったならば、「摂政」ではなく、直接に「天皇」に即位してもよかったはずなのである。
 このように、『書紀』の聖徳太子は架空とまでは言い難いとしても、その設定に不自然さがあり、再考すべき余地は十分にある。

蘇我善徳太子
 ここで再び『隋書』の記述に戻ると、同書は600年遣使当時の倭に太子がおり、名づけて「利歌弥多弗利」と呼んだと記す。この「利歌弥多弗利」とは「和歌弥多弗利」(ワカミタフリ)の誤記と見られている。「ワカミタフリ」は後代には皇族の子女全般の尊称となるが、7世紀初頭には大王の太子の意味であったようだ。
 正史・通説とは異なり、この当時の体制を馬子大王・推古女王共治体制ととらえると、この体制の太子とは普通に考えて馬子大王自身の長男ということになろう。
 この点、蘇我氏の公式系図上、馬子の長男は推古天皇の次の舒明天皇時代の大臣として全権を掌握した蘇我蝦夷となっているが、『書紀』には通説上はほとんど無私されている次の注目すべき一節がある。596年11月、いよいよ法興寺が落成し、馬子の息子・善徳臣が寺司(管長)になったという記事である。内容は難しくないので、漢文の読み下し文で引用してみよう。

四年の冬十一月、法興寺を造り竟りぬ。則ち馬子大臣の男善徳臣を以ちて寺司に拝す。是の日、恵慈、恵聡二僧、始めて法興寺に住り。

 ここに「蘇我善徳」という蘇我氏公式系図には現れない馬子の息子が登場する。『書紀』の中でも善徳の名が見えるのは、この記事が唯一である。『書紀』は善徳を「馬子の男(息子)」としか記さないが、『元興寺伽藍縁起』(法興寺の由緒をまとめた書物)では、この善徳を馬子の長子と明記しているので、馬子には公式系図には現れない長男があって、国家プロジェクトとして建立された法興寺の事務方トップに任命されていたのである。
 しかも、『書紀』で同寺の住職となったことが記される二人の僧のうち、恵慈は高句麗出身で聖徳太子の仏教の師であるし、百済出身の恵聡も恵慈とともに仏教を広め、『書紀』で「三宝の棟梁」とまで称賛される高僧であった。
 このように渡来系の高僧らを擁して法興寺のトップに就いたという馬子の長男・善徳こそ、馬子大王体制のワカミタフリ=聖徳太子その人ではなかったかと推定できるのである。言わば「蘇我善徳太子」である。
 そうすると、『書紀』は善徳太子の存在を秘匿したうえ、用明天皇の皇子たる聖徳太子として天皇系譜に編入する一方で、偉大な聖人・聖徳太子法興寺の寺司にするわけにもいかないので、この寺司人事の記事中でだけ、さりげなく「馬子の息子・善徳臣」として臣下級に格下げして言及しておくという作為を加えたことになるが、これも神武以来の連続的皇統という筋書きに立って「蘇我朝」の成立を秘匿する同書のプランに合わせた苦肉の策であろう。
 なお、聖徳太子を父の用明天皇が可愛がり、宮殿の南の上宮[かみつみや]に住まわせたところから、彼を上宮太子、また彼の一族を上宮王家とも呼ぶということは、「善徳太子」の父・馬子が親しかった甥の用明大王のもとに若い善徳を預けて育成させていた事実の反映かもしれない。
 この善徳太子に関して確実に言えることは、彼が仏法を専門的に学び、仏教に深く帰依していたということぐらいで、それ以外の具体的な政治上の事績は不明である。
 『書紀』では特に十七条憲法の制定を聖徳太子の代表的な事績として挙げているが、元来これを疑う説も強く、結局のところ、馬子大王体制の業績のほぼすべてはまさに馬子大王と共治した推古女王―通説では過小評価されているが―のそれであって、善徳太子は全権を委ねられた「摂政」などではなかったと考えるほかない。
 ただ、蘇我王朝の本格的な樹立をもくろむ馬子大王にとって、善徳太子が期待の星であったことは間違いない。
 この点、昆支朝では従来、太子のことを「大兄」と呼んでいたが、善徳太子が「ワカミタフリ」を号したのは、馬子が新たな王号「アメタラシヒコ」を称したことと同様、新体制ならではの新たな称号を太子にも付与して、新王朝の成立を誇示したものであろう。