歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東通史―中心⇔辺境(1)

二 辺境関東の諸王国

 弥生時代以後の関東は、農耕後進地として、縄文時代に保っていた中心地としての地位を当初は大陸に近い北九州を先進地とする西日本に譲ることとなった。
 通説によると、3世紀から4世紀にかけて、畿内に大型墳丘墓を特徴とする強力な王権が成立し、この王権が放射状に支配圏を広げて、後の天皇王朝につながる統一王国を形成したとされる。その過程で、畿内王権の支配は関東にも及ぶようになり、関東でも畿内型と言われる前方後円墳の造営が始まる。
 とはいえ、関東が畿内に完全に服したわけではなく、古墳時代の関東には今日の群馬・栃木にかけての地域を支配した独自の王権の存在が確認される。
 今日、毛野国とも呼ばれるこの関東王権の実態についてはなお議論があるが、関東では最大の古墳密集地である群馬の古墳は畿内と完全に一致しているわけではなく、高句麗的な方墳や積石塚のものも含まれ、高句麗からの渡来勢力の影響を排除できない。この王権の王家であったと見られる毛野氏は後に群馬側の上毛野氏と栃木側の下毛野氏に分立するが、その遠祖は渡来系であった可能性も十分に認められる。
 毛野国の古墳には、東日本最大級にして、全国でも有数の墳丘長200メートル超のものもあり、これを通説のように畿内王権の支配の証しとみなすのは、畿内中心史観のなせるわざである。仮に畿内の「支配」が及んでいたにせよ、その支配密度はまだ高くなく、この勢力が明らかに畿内王権に服するようになるのは、6世紀半ばの欽明朝以降のことであると解するのが私見である(詳しくは拙稿参照)。
 関東地方の王国は毛野国に限らず、古墳の分布上は千葉にもやはり方墳を豊富に含む幾つかの古墳群が認められる。古代には、関東平野東部まで内海の香取海が湾入していたから、千葉の諸勢力と毛野国とは同海を通じて交流していた可能性がある。あるいは、それらは元来同祖勢力であったのかもしれない。
 5世紀後半に中国南朝宋に朝貢した倭王武が中国史書『宋書倭国伝で引用された上表文中で、武王の祖先は「東は毛人を征すること五十五か国」などと上申しているのは、箔付けの政治的な誇張を含むとしても、広大な関東には大小複数の王国が割拠していたとしても、不思議はない。
 ところで、上記上表文で注目されるのは「毛人」という語である。毛野氏という氏族名もここに由来する可能性があるが、『日本書紀』の日本武尊の東征説話では、より中国風に「東夷」という語でも表現されている関東人たちは、何者だったのだろうか。
 おそらく畿内の人間よりも毛深いため、毛人というような語が造られたとも考えられるが、そうだとすると、この地域の一般住民や兵士はなお縄文系の要素を残した種族であったかもしれない。しかし、古墳に納まった支配層は発掘された人骨などからも、大陸型の形質を持つため、渡来系の血を引く種族であったと推察される。つまり、被支配層の多数派とは民族系統を異にする少数支配層であった。
 しかし、これら関東の諸王国は決して東の蛮国などではなく、畿内に匹敵するだけの文化的水準を備えていたことは、古墳の造営技術や副葬品からも読み取れることである。

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