歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東通史―中心⇔辺境(序)

一 先史関東の変遷

 関東地方は、周知のとおり首都東京を中核とする現代日本の政治経済の中心地として定着しているが、歴史的には中心と辺境の地位を幾度となく交替した末に、現在の地位にたどりついている。こうした関東の中心⇔辺境の交替は、歴史時代に入る前の先史時代に始まっている。
 そもそも長く続いた狩猟採集民の縄文時代には、東日本に気候的・環境的優位性があったため、縄文人たちは東日本、わけても南関東に集住するようになった。その結果、南関東に大規模な縄文集落が形成され、まさに今日のように高い人口密度を記録していた。特に貝塚の多くが南関東、特に千葉の東京湾岸に集中していることに照らすと、湾岸千葉は縄文時代の「首都」と言えそうな地域であったかもしれない。
 縄文時代はおおむね一万年にわたって続くから、先史関東が日本の中心地であった時代も極めて長きにわたったことになり、その後、今度は千年以上にわたって中心地の座を西日本に譲ることが不思議なほどであるが、その地位交替は民族構成と経済的土台の変革のゆえであった。
 縄文人現代日本人とはほぼ別種といってよい―その遺伝子は程度の差はあれ受け継がれているが―南方出自の古いモンゴロイド種族と見られており、遺伝子構造的にはアイヌ民族と近似する狩猟採集民族であった。近年の研究によると、縄文人も単一集団ではなく、北方系も含めた複数系統に分かれていた可能性も指摘される。
 ところが、通説によれば紀元前300年頃(近年の年代測定により、紀元前900年前後まで遡及するとの説が提起されている)に、朝鮮半島から中国江南地方にまたがる大陸文化圏から西日本に移住してきた農耕民集団の東進により、縄文人が順次征服もしくは同化されていき、農耕が関東にも到達する。
 しかし、当時の原始的灌漑技術では、関東平野での農地開拓には限界があり、関東地方への農耕の普及は遅れた。関東での初期農耕は相模平野など、農耕が比較的早くに伝播された東海地方に連なる地域に限定されていた。
 こうして、農耕民の弥生時代が到来すると、関東は長く続いた中心地としての地位を西日本に譲り、農耕社会の確立期まで長く辺境地に甘んずることになる。
 この時期の関東地方の住民がどのような民族であったのかは詳らかでないが、後の史書で毛人、東夷などと蛮族視されるのは、関東地方を征服対象とみなす畿内王権の政治的な意図に基づく蔑称であり、実際には大陸型弥生人の進出により、弥生人化(少なくとも混血化)が進んでいたと見られる。ただ、農耕の伝播が最も遅れた北関東においては、なお縄文人の系譜を引く狩猟採集民が生き延びていた可能性はあるだろう。