歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

天皇の誕生(連載第8回)

第二章 「神武東征」の新解釈

(5)「神武天皇」の分割

東征勢力の首領
 ここで、「神武天皇」とは何者であるのかという初めの問いに戻ってみよう。
 『記紀』は「神武天皇」を東征からヤマト征服、王朝樹立までの一連のプロセスの主人公として統一し、英雄物語の体裁を作り出しているが、これまでの検討から明らかなように、東征は一人の英雄によって完遂された征服事業ではあり得ない。
 それは第一に、4世紀前半に金官加耶国から糸島半島へ移住してきた勢力の次世代による東方への再移住として始まった。この東征勢力は、前回見たように、まずは吉備へ入植し、その一部はそこに定住、後に吉備王権とも称される有力な地域王権を作り出すことになる。
 このような事業の統率者としての「神武」のような人物は、たしかに実在したであろう。しかし、彼は「天皇」などではあり得ないことはもちろん、王ですらなかったであろう。彼は―金官加耶王族であった可能性はあるが―せいぜい移住集団の首領にすぎなかった。

再東征勢力の首領
 こうして、いったん吉備に定着した勢力の中からさらに東方へ移住しようとするグループが現れた。このような再東征集団の首領としての「神武」のような人物が実在したことも想定できる。
 この再東征集団は畿内を目指して上陸したが、在地勢力の激しい抵抗に遭う。『書紀』が神武紀の中で力を込めて描いているように、神武はナガスネの他にも、随所で様々な在地勢力に遭遇し、戦闘を強いられている。
 『記紀』ではこれらの敵勢力を神武がすべて片付けて、見事初代の「天皇」として即位するハッピーエンドになっているが、再東征勢力の首領がこうした多数の在地勢力の征服・糾合をすべて自分の代で完了することができたとは考えにくい。
 ただ、この再東征勢力の首領としての「神武」がどうにか畿内侵入・定着に成功した可能性はある。神武紀では、神武が「畝傍山の東南の橿原の地は国の真中である」と詔して、ここに宮を定めたとあるが、橿原は「国の真中」というよりは、奈良盆地でも南部のやや辺境の地であるから、後発の外来集団は、在地勢力に押されてこのような場所取りしかできなかったと読むことさえできる。
 とはいえ、橿原とその近傍の高市郡は、後に飛鳥の地として畿内の政治的な中心地となることからすると、この地に陣取った加耶系集団がやがて王権樹立の主役となったことは認められるであろう。

畿内王権の開祖
 このように、一応王権と呼び得るものを樹立したのは、おそらく先の再東征勢力首領の次世代くらいの人物であり、彼がまさに神武紀にあるように周辺地域の在地勢力を征服・糾合し、王権を樹立した立役者となったものと考えられる。
 このような畿内王権を初めて樹立した開祖・初代国王としての「神武」も実在したとみなしてよいであろう。あるいは、ニギハヤヒ派のような同族の先着勢力を服属させたのも、彼の代のことであったかもしれない。
 とはいえ、彼の支配領域はせいぜいヤマトと河内―河内はニギハヤヒ派がなお半独立状態であった可能性がある―を併せたぐらいのところで、それはまだ「ヤマト王権」と呼び得るようなものではなく、地域的な小王権にすぎなかったであろう。
 以上の検討からすると、ニニギに象徴される渡来第一世代から東征・再東征・王権樹立に至るまでおよそ四世代かかっており、「神武天皇」をニニギの曾孫とする『記紀』の設定にも一定の意味―もちろん、各世代の「神武」がすべて直系の血統関係にあったとは限らない―があるように思われる。
 とすれば、このような畿内加耶系王権の樹立は、どれほど早く見ても4世紀中頃以前に遡ることはない考えるべきである。

神武天皇とは、金官加耶国から九州北部へ移住してきた渡来集団が、さらに東方に移住して畿内で王権を樹立するまでの世代を超えたプロセスを一本にまとめ上げるために造作された説話上の英雄である。
ただ、現実に樹立された畿内加耶系王朝(言わばニニギ朝)が、4世紀を通じて倭の有力な王権に育っていくことは事実と見てよいが、果たして4世紀代の倭の全体状況はどのようであったのだろうか。