歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

弥助とガンニバル(連載第6回)

五 オマーン海洋帝国の台頭

 弥助が日本から姿を消した後、彼の出自した東アフリカ情勢も転換期を迎える。16世紀初頭以来、ポルトガル支配下に置かれていたアラビア半島南端のオマーンが台頭してくる。そのきっかけは17世紀前半、イスラーム少数宗派イバード派を奉じるヤアルビー家が台頭し、イマーム王朝を樹立したことにある。
 王朝創始者ナースィル・イブン・ムルシドは、ポルトガル勢力の放逐を掲げて分裂していた部族の統一を図り、強力な軍隊を組織して、各個撃破的な戦略でポルトガルが陣取る沿岸部の要塞を順次落としていった。一方で、彼は西欧の新興列強であった英国の東インド会社と手を組み、通商条約を締結することで、ポルトガル貿易圏への割り込みを図るという巧みな通商政策も展開した。
 彼は目標達成寸前にして没したが、後を継いだ従兄弟のスルターン・イブン・サイフが1650年に中心都市マスカットを占領し、オマーンからのポルトガル勢力一掃は完了した。その勢いで、インド洋を越えて東アフリカやインド西部のポルトガル勢力圏への進出も図る。
 特に16世紀初頭以来、ポルトガルが占領してきたザンジバル島の奪取を目指して40年近くもポルトガルと攻防戦を繰り広げた末、ついに17世紀末、これを攻略した。以後、ザンジバル島オマーンの東アフリカ側拠点として確立されていく。
 弥助の故郷と目されるモザンビークは引き続き、ポルトガル領として維持されるが、王室のヤアルビー家の名をとってヤアーリバ朝と呼ばれたオマーンは斜陽化していくポルトガルを尻目に東アフリカ沿岸、紅海沿岸、ペルシア湾岸を結ぶ中継交易の利権を掌握する海洋貿易帝国として大いに繁栄した。
  しかし18世紀に入ると跡目相続から内乱に陥ったところをイランに軍事介入され、マスカットもイラン軍の手に落ちた。そのイランを駆逐して新たな支配者となったのが、やはりイバード派のブーサイード家であった。
 ブーサイード朝は当初は不安定であったが、19世紀に入り、5代君主サイイド・サイード(サイード大王)が内乱期にオマーンの支配から事実上独立していた東アフリカ沿岸部の征服を進め、1840年にはザンジバルに遷都した。
 50年間在位したサイード大王時代のオマーンは海洋貿易帝国オマーンの全盛期であり、東アフリカ沿岸部の貿易権益を英国と二分するほどであった。彼が建設したザンジバルの旧市街地ストーンタウンは世界遺産にも登録されている。
 ただ、オマーン海洋帝国の貿易手法は黒人奴隷ザンジュに由来するザンジバルを拠点とする奴隷貿易、しかも帆船を使った大船団交易という中世以来の伝統に沿った旧式のものであり、西欧に発する奴隷制廃止、さらには蒸気船の普及という技術革新の波を乗り切れず、間もなく消えゆく運命にあったのである。