歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東代官伊奈氏列伝(連載第7回)

六 伊奈忠辰(1705年‐1767年)/忠宥(1729年‐1772年)

 
 伊奈忠辰〔ただとき〕は、関東代官先々代の忠順の実子であったが、遅く生まれたらしく、先に養子となっていた義兄の忠逵が後を継ぎ、忠逵が引退した後を受けて、寛延三年(1750年)に関東代官に就任している。これによって、関東代官家が再び忠治系統に復帰したことになる。
 しかし、忠辰は公文書の作成管理を担当する奥右筆頭組次席という幕府要職に就いたものの、在任わずか4年にして公職を退任している。退任の理由が病気によるものか、不祥事、あるいは政治的な失権かは不明である。
 忠辰の後を継いだのは、忠逵の実子忠宥〔ただおき〕であった。これにより、関東代官職が短期で伊奈宗家系に戻ることになり、以後はこの系統で確定する。部下の不祥事等で処罰された父とは異なり、忠宥は20年近い在任中、大過なく関東代官職を全うしている。
 彼が名を残したのは、明和元年(1764年)末から翌年にかけて発生した中山道伝馬騒動の処理である。この事件は、当時公式の伝馬制度を補充するものとして、街道沿いの農村民に賦役として人馬の提供義務を課す助郷制度の矛盾が露呈された一揆である。
 明和元年から翌年にかけては朝鮮通信使日光東照宮150回忌など、中山道を利用する行列行事が続いたことから、沿道農村の助郷が加増され、農民たちの不満が高まっていた。そのため、通常は体制側の村役人までもが加わった一揆となり、中山道沿い一帯で数十万と言われる農民が一斉蜂起する事態に発展した。
 この未曾有の一揆に対し、幕府は農民層の信頼が厚い関東代官伊奈氏を介して、助郷取消しを伝達するとともに、一揆の指導者を処罰してようやく鎮圧したのであった。この時の功績により、忠宥は勘定奉行に任じられたとも言われるが、以前述べたとおり、伊奈氏と勘定方のつながりは強いので、これは特段大栄進というわけでもないと思われる。
 忠宥独自の事績としては、セイヨウアブラナ(通称のらぼう菜)を配下の名主に命じて、江戸近郊の村々に配布し栽培を奨励したことが記録される。この種は雑草のごとく野良でも育ち、耐寒性に優れているため、後に天明、天宝の大飢饉に際して江戸近郊を飢饉から救ったと伝えられる。
 ちなみに、一般には青木昆陽の功績とされるサツマイモ栽培の関東への普及についても、昆陽に先立って、忠宥の父忠逵が試作を始めていたという説もある。そうだとすると、父子ともども伊奈氏の農業指導者としての一面を象徴するエピソードである。
 忠宥に嫡子はなかったと見え、大和郡山藩主柳沢吉里の六男忠敬〔ただひろ〕を養子として後を継がせた。5代将軍綱吉の側用人として大名に取り立てられた柳沢吉保の孫に当たる人物である。このことは、10万石を越える有力譜代大名家から養子を取ることができるほど、当時の伊奈氏は旗本ながら事実上大名格の扱いを受けていたことを示している。
 しかし、これを先例として、以後は大名家から養子を取る形の養子継承が続き、伊奈氏本来の世襲体制は終焉することになる。このような変化が起きた要因は不明であるが、最終的にお家騒動を起こして改易される没落へ向けた芽がこの頃に生じたことは間違いないようである。