歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

弥助とガンニバル(連載第1回)

 本連載のタイトルに表れる弥助とガンニバルは、歴史上の人物として全く無名というわけではないが、頻繁に話題になるような人物ではない。共通するのは、どちらもアフリカ人であること、そして奴隷身分から解放され、縁もゆかりもない東の国で武人として活動したことである。
 弥助は17世紀後半、戦国日本の最高執権者・織田信長の家臣となったアフリカ人であり、記録に残る限り、おそらく唯一の黒人武士である。その生没年は一切不詳で、子孫と思しき家系も残されていない。
 一方のガンニバル(生年不詳‐ 1781年)は、正式にはアブラム・ペトロヴィッチ・ガンニバルといい、18世紀、帝政ロシアで軍人となり、最終的には地方総督・貴族にまで叙せられたアフリカ人である。彼はロシアに帰化・定着し、近代ロシアの文豪プーシキンは母方からガンニバルの曾孫に当たる。
 このように、異なる時代と場所で活動した二人のアフリカ武人は、いずれもアフリカ奴隷貿易の数奇な副産物であった。歴史上アフリカ奴隷貿易には大きく分けて、イスラームオスマン系の奴隷貿易と西欧系の奴隷貿易とがあり、弥助は後者の、ガンニバルは前者の系統から出た奴隷の出身であった。
 奴隷は通常、商品として市場で売買されてそれぞれの主人の下で労役に従事させられる運命にあるが、弥助とガンニバルは日本やロシアの最高権力者との奇遇により解放され、武人として働くことになった「幸運」な者たちであった。
 彼らはもちろん奴隷貿易のシステムから生じた例外中の例外であり、他に記録の残る類例は見当たらない。その意味では、一般化できない当該時代限定の特殊例として扱うべき人物なのであるが、本連載ではそうした際物的な列伝を回避し、特殊例の二人を通して、二人を生み出した二系統のアフリカ奴隷貿易を史的に通覧してみたい。
 その際、弥助とガンニバルが組み入れられた中近世日本と近世ロシアという二つの辺境的な東方国家を奴隷貿易システムの中に位置づけ直すという稀少な試みにも出てみたいと思っている。また前面に押し出すことはあえてしないが、通奏低音的には人種差別の根源に触れることにもなるであろう。