歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東代官伊奈氏列伝(連載第6回)

五 伊奈忠逵(1690年‐1756年)
 
 先代伊奈忠順は、なかなか嫡男が生まれなかったらしく、初めは伊奈氏宗家側の武蔵小室旗本領主・伊奈貞長の子・忠逵〔ただみち〕を養子とした。ところが、晩年に実子の忠辰〔ただとき〕が誕生したため、忠順死去に際しては、まず年長の養子・忠逵が関東代官職を継ぐこととなった。ここでいったん小室領主系と関東代官系が再統合されたことになる。
 忠逵は関東代官とともに幕府の勘定吟味役上座を兼職しているが、これは当時、幕府で新井白石が主導していた正徳の治と関連している。勘定吟味役は5代将軍綱吉時代に勘定所で監査を担当する職制として設置されたものがいったん廃止されていたところ、白石の財政改革策の一環として復活したものであった。
 勘定吟味役は勘定所長官職たる勘定奉行とは別に、老中支配を受ける地位にあった。その点、先祖の伊奈忠次と忠治は幕府初期の勘定奉行も兼任していたが、元来、伊奈氏が所管した天領勘定奉行の支配であるため、伊奈氏と勘定方は不可分の関係にあった。
 忠逵の勘定吟味役就任により、関東代官職は幕府宰相格の老中と直接につながるようになり、これは地位のいっそうの上昇を意味すると言えただろう。しかし、吉宗が8代将軍に就任すると、勘定吟味役は訟務担当の公事方と監査担当の勝手方に分離され、権限を削がれた。
 また、吉宗は農業改革の一環として、江戸近郊での大規模な新田開発を推進すべく、膝元から紀州藩士・井沢弥惣兵衛を抜擢して各地の開拓に当たらせた。彼は紀州勘定方も務めていた開拓専門家であり、伊奈氏にとっては強力なライバルの登場であった。
 弥惣兵衛が主導した新田開発の中でも著名なのは、見沼代用水の開削である。見沼には伊奈忠次時代に作られた灌漑用溜池として見沼溜井があったが、周辺の新田開発に伴う水不足解消のため、農民から水路開削の要望が多かった。しかし、伊奈氏は治水上の難点などを理由に水路開削に否定的であった。また、溜井利用者の間からも水路開削反対の要望があり、訴訟に発展した。
 しかし、享保の改革を強力に推し進める吉宗政権は耳を傾けることなく、訴訟は却下、見沼開拓は弥惣兵衛の指揮の下、強引に進められた。この時、忠逵も協力したとされるが、おそらく本意ではなかったのだろう。
 吉宗のバックアップの下、弥惣兵衛は他にも関東近郊や木曽で開拓事業を推進し、それまでの自然の流れを利用した溜井に代表される伊奈氏流の手法(関東流)に対し、取水と排水を分離するより人工的な技術を駆使した井沢氏流の手法(紀州流)を普及させたのであった。
 伊奈氏と井沢氏の力関係の逆転は享保十四年(1729年)、忠逵の減封処分という形で現れる。理由となったのは、手代の不正等の不祥事とされるが、詳細は不明であり、幕府中枢による政治的処罰の可能性もあろう。
 ちなみに、忠逵は減封処分の前年、関東代官管轄地の南品川宿にて吉宗落胤を詐称し、浪人らを集め認知運動を展開していた天一坊改行なる山伏の検挙に貢献したのだが、褒賞されるどころか、改行処刑の翌月に自らが減封処分を受けているのもいささか不可解である。
 ただ、忠逵は処分後も地位を追われることなく、40年近くにわたり関東代官職を務め、寛延三年(1750年)に退任している。こうして在職期間は長かったとはいえ、忠逵の時代は幕府側が紀州系に移った転換期であり、先祖伝来の土木技術が時代に沿わなくなり、伊奈氏の権勢に最初の陰りが見えた時期であったと言える。