歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ユダヤ人の誕生(連載第6回)

Ⅱ 「出エジプトの真相 

(5)ヒクソスの駆逐
 旧約の出エジプトはそれだけで一冊の書にまとめられた壮大な物語である。それによると、ヤコブ一族のエジプト定着後、ユダヤ民族はエジプトで地歩を築いていたが、ユダヤ民族が増えすぎたことから、ファラオはユダヤ民族を重労働で搾取した末、ユダヤ民族に生まれた男子を殺害する一種の民族浄化政策に踏み込む。
 出エジプトの指導者となるモーセはこうした政策の最中に生まれたが、捨て子となっていたところをファラオの王女に救われ、実は自らの実母である乳母によって宮中で育てられ、成長する。やがて彼はエジプト人殺害事件を起こして逃亡中、神からユダヤ民族を脱出させるよう啓示を受ける。
 そこで、彼はファラオにユダヤ民族の国外退去を請願するが、何度も拒否される。しかしそのたびにエジプトに厄災がもたらされ、ついに10回目でエジプト人の初子はすべて死ぬという重大な厄災が生じるに及んで、ファラオの裁可が出る。そこで、モーセは同胞を率いてエジプトを出る。
 このような劇的なあらすじであるが、これもヨセフの入エジプトと同様、史実の忠実な反映とは思われない。ここで想起されるのは、前回述べたエジプト人勢力によるヒクソス駆逐の事実である。
 ヒクソス系第15王朝の末期からエジプト人勢力の抵抗が始まり、上エジプトのテーベを拠点に地方的なエジプト系第17王朝が樹立される。その後、同系第18王朝の実質的な開祖と目されるイアフメス1世は弱体化したヒクソスに対する効果的な掃討作戦を展開し、前1500年代半ば頃までにエジプト再統一に成功した。
 そればかりか、彼はヒクソスをパレスチナ方面まで追撃する遠征を行い、これによってヒクソスのパレスチナ側拠点であったシャルヘンを陥落させた。そして従来とは逆に、パレスチナ地方にまでエジプトの支配権を拡大したのである。
 ただ、これは旧約上の出エジプトとは逆に、ファラオ側が異民族勢力を追い出したのであり、出エジプトのプロットとは合致しない。
 ただ、出エジプト物語でもユダヤ民族退去の裁可を後悔したファラオが追っ手の軍勢を差し向けてきたが、モーセが杖をかざすと海が裂け、モーセ一行は乾いたところを通って渡り切るが、エジプト軍は水に飲まれて全滅する話になっている。この部分では、イアフメスのパレスチナ追撃作戦と重なる点も認められる。
 結局のところ、断定はできないが、出エジプト物語の根底には上述したエジプト新王国によるヒクソス駆逐作戦と、それによって難民化して原郷へ帰還していった原カナン人の記憶が伝承として反映されているのではないかとの推測は働く。
 とはいえ、先に見たように、ヒクソス駆逐作戦と出エジプト物語では状況的な差異も少なくなく、両者を完全に同一視することは難しい。とすると、出エジプト物語にはさらに別の史実の反映も想定しなければならないであろう。

松平徳川女人列伝(連載第5回)

八 崇源院(1573年‐1626年)

 江の名のほうが知られる崇源院は徳川2代将軍・秀忠の継室にして、3代将軍家光の生母でもある。出自は浅井氏だが、母を介して織田信長の姪にも当たる。徳川歴代将軍の正室として京都の公家・皇族息女を娶る慣習が確立する以前の戦国時代的な婚姻戦略によって将軍正室となった最後の人物でもある。従って、その半生もまた天下が織田氏から豊臣氏を経て徳川氏に移り変わる戦国時代末期を絵に描いたようなものであった。
 まず信長との対立で悲劇的な最期を遂げた浅井長政を父に、さらに豊臣秀吉と対立して滅ぼされた柴田勝家の後妻として勝家とともに自害した市を母に持つ持つ三姉妹の三女という出自もそうであるが、長じてからも情勢に応じて転々と婚姻が繰り返された人生も戦国的であった。
 初婚は本能寺の変後、政権を握った豊臣秀吉の意向により織田家臣だった佐治氏に輿入れさせられたものである。しかし、小牧・長久手の戦いの後、秀吉の意向から離縁させられ、今度は秀吉の甥で養子の豊臣秀勝に嫁がされ、一女をもうけるも、秀勝は朝鮮出兵に参陣し、現地で病死してしまう。こうして二番目の夫とも死別した後、再々婚相手として徳川秀忠のもとへ嫁がされる。
 秀忠は従前、織田信長の孫で秀吉の養女でもあった小姫と婚姻していたが、幼児婚のうえ、小姫は7歳頃に没していたため、実質的には崇源院が初婚と言ってもよかった。とはいえ、彼女にとっては三度目の婚姻で、秀忠より6歳年長であった。
 秀忠との間には二男五女をもうけたが、立て続けに女児ばかり生まれた後、ようやく生まれた世継ぎの男児が家光であった。さらに、末子の和子は後水尾天皇に嫁ぎ、後の女帝・明正天皇を産むなど、崇源院の血統は家光以降の将軍家と天皇家にまで及ぶものとなった。
 こうして徳川家への入嫁は血統的には大成功であり、家系維持の功労者ということになるが、大坂夏の陣では姉の淀を失い、自身の没後ではあるが、寵愛していた次男の忠長が乱心的な行動のかどで改易、幕命により自刃するなど、個人的には不幸が続いた。
 ちなみに、崇源院は病弱だった長男の家光よりも壮健で容姿端麗な次男の忠長を寵愛したため、幕閣でも家光派と忠長派の対立が生じたが、当時大奥で実権を持ち始めていた春日局による大御所・家康への直訴で家光後継が確立されたという逸話も残る。
 幕閣の派閥対立はともかく、崇源院自身が将軍後継問題など政治問題にも介入していたという証拠はなく、実像はよりつつましい人物であったようである。ただし、秀忠が当時の大名慣習に反して生前、正式の側室を持たなかったのは崇源院の嫉妬深さが一因との説もあるが、これも確証がない。
 ただ、秀忠は二人の愛妾を持ち、そのうちの一人(浄光院)との間に生まれたのが、後に会津藩初代藩主にして、4代将軍家綱時代に宰相格となった保科正之である。崇源院の嫉妬深さという説は会津藩を出所としているようであるが、彼女自身は誕生を秘匿されたうえ、江戸城外の信濃高遠藩主・保科家で養育されていた正之の存在自体を知らされていなかった可能性もあり、信憑性には疑問符が付く。

シリーズ:失われた権門勢家(第2回)

 
 
(1)出自
 ギリシャマケドニア王国の第7代国王アレクサンドロス3世(大王)を始祖とする帝室。アレクサンドロス大王が出自したアルゲアス朝は、伝説上の英雄ヘラクレスを始祖とするヘラクレス裔(ヘラクレイダイ)を自称した古い王家で、紀元前8世紀半ば頃から、マケドニアの支配者となった。ギリシャの他地域とは異なり、都市国家を形成せず、専制王政を確立した。

(2)事績

 アレクサンドロスが歴代マケドニア国王と決定的に異なったのは、東方遠征に生涯を捧げたことである。その契機となったのは、父王フィリポス2世のペルシャ征服作戦の継承にあった。彼は父王が果たせなかったペルシャ征服を達成し、その勢いで中央アジアからインドにまで侵攻、世界史上初めてヨーロッパとアジアをつなぐユーラシア帝国を築いた。その意味で、ユーラシアという超大陸的な地理学的/地政学的観念はアレクサンドロスに始まると言える。

(3)断絶経緯

 アレクサンドロスが33歳にして早世したことが、帝国崩壊の直接的契機となった。死因は病死説と暗殺説があるが、病死説の場合、感染症の可能性が高い。ともあれ、大王の後継者は、知的障碍のある異母弟フィリポス3世と大王死後に生まれた嬰児のアレクサンドロス4世であったから、当然にも摂政体制が敷かれた。しかし、安定せず、大王配下の将軍たちによる継承戦争(ディアドコイ戦争)が勃発、フィリポス3世、アレクサンドロス4世とも、相次いで暗殺され、大王家は断絶した。

(4)伝/称後裔氏族等

 マケドニア王室は一夫多妻制であり、アレクサンドロス大王も国際結婚による一夫多妻であったが、海外遠征に忙殺された彼は、あまり子を多く残していない。記録されている限り、バクトリア豪族の娘ロクサネとの間の嫡子アレクサンドロス4世と、フリジア出身の側室バルシネとの間の庶子ヘラクレスだけである。しかし、いずれもディアドコイ戦争の渦中、年少未婚で子を持たないまま相次いで殺害されたため、伝/称後裔氏族も存在しない。