歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

松平徳川女人列伝(連載第5回)

八 崇源院(1573年‐1626年)

 江の名のほうが知られる崇源院は徳川2代将軍・秀忠の継室にして、3代将軍家光の生母でもある。出自は浅井氏だが、母を介して織田信長の姪にも当たる。徳川歴代将軍の正室として京都の公家・皇族息女を娶る慣習が確立する以前の戦国時代的な婚姻戦略によって将軍正室となった最後の人物でもある。従って、その半生もまた天下が織田氏から豊臣氏を経て徳川氏に移り変わる戦国時代末期を絵に描いたようなものであった。
 まず信長との対立で悲劇的な最期を遂げた浅井長政を父に、さらに豊臣秀吉と対立して滅ぼされた柴田勝家の後妻として勝家とともに自害した市を母に持つ持つ三姉妹の三女という出自もそうであるが、長じてからも情勢に応じて転々と婚姻が繰り返された人生も戦国的であった。
 初婚は本能寺の変後、政権を握った豊臣秀吉の意向により織田家臣だった佐治氏に輿入れさせられたものである。しかし、小牧・長久手の戦いの後、秀吉の意向から離縁させられ、今度は秀吉の甥で養子の豊臣秀勝に嫁がされ、一女をもうけるも、秀勝は朝鮮出兵に参陣し、現地で病死してしまう。こうして二番目の夫とも死別した後、再々婚相手として徳川秀忠のもとへ嫁がされる。
 秀忠は従前、織田信長の孫で秀吉の養女でもあった小姫と婚姻していたが、幼児婚のうえ、小姫は7歳頃に没していたため、実質的には崇源院が初婚と言ってもよかった。とはいえ、彼女にとっては三度目の婚姻で、秀忠より6歳年長であった。
 秀忠との間には二男五女をもうけたが、立て続けに女児ばかり生まれた後、ようやく生まれた世継ぎの男児が家光であった。さらに、末子の和子は後水尾天皇に嫁ぎ、後の女帝・明正天皇を産むなど、崇源院の血統は家光以降の将軍家と天皇家にまで及ぶものとなった。
 こうして徳川家への入嫁は血統的には大成功であり、家系維持の功労者ということになるが、大坂夏の陣では姉の淀を失い、自身の没後ではあるが、寵愛していた次男の忠長が乱心的な行動のかどで改易、幕命により自刃するなど、個人的には不幸が続いた。
 ちなみに、崇源院は病弱だった長男の家光よりも壮健で容姿端麗な次男の忠長を寵愛したため、幕閣でも家光派と忠長派の対立が生じたが、当時大奥で実権を持ち始めていた春日局による大御所・家康への直訴で家光後継が確立されたという逸話も残る。
 幕閣の派閥対立はともかく、崇源院自身が将軍後継問題など政治問題にも介入していたという証拠はなく、実像はよりつつましい人物であったようである。ただし、秀忠が当時の大名慣習に反して生前、正式の側室を持たなかったのは崇源院の嫉妬深さが一因との説もあるが、これも確証がない。
 ただ、秀忠は二人の愛妾を持ち、そのうちの一人(浄光院)との間に生まれたのが、後に会津藩初代藩主にして、4代将軍家綱時代に宰相格となった保科正之である。崇源院の嫉妬深さという説は会津藩を出所としているようであるが、彼女自身は誕生を秘匿されたうえ、江戸城外の信濃高遠藩主・保科家で養育されていた正之の存在自体を知らされていなかった可能性もあり、信憑性には疑問符が付く。