歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東代官伊奈氏列伝(連載第1回)

 
 筆者が育ったさしたる名所旧跡もない街の隣接市に通称赤山城址がある。おそらくここが筆者の街から最寄の城址と思われる。城址といっても、正確には旗本陣屋であり、天守を持つような派手な城ではない。
 広大な跡地は現在では私有地や公園となり、往時をしのばせるものと言えば土塁とかつては5乃至6メートルの深さがあったと言われる堀くらいのものである。この赤山陣屋の主こそ、本連載の主人公伊奈氏であった。
 伊奈氏は江戸時代初期から中期にかけて、江戸近郊の関東八州幕府領の統治を担う関東代官を世襲した一族である。この一族は松平=徳川氏と同様、足利氏の流れを称し、元は荒川氏を名乗っていた。南北朝期に北朝側武将として活躍した荒川詮頼が足跡を確実にたどれる遠祖であり、詮頼の曾孫易氏が時の室町9代将軍足利義尚から信州伊那を拝領したとされる。
 易氏の孫易次は伊奈熊蔵を名乗るが、一族内紛に敗れ伊那を出て三河国に移住、当地で台頭しつつあった松平氏の家臣となる。その後、戦国期の伊奈氏はしばしば松平氏からの出奔と帰参を繰り返し、必ずしも安定した家臣ではなかったが、易次の曾孫忠次は徳川代官衆として手腕を認められ、家康の江戸移封に伴い、関東代官頭として地方行政を委ねられた。そして江戸開府後には、1万石余ながら譜代大名に列せられ、武蔵小室藩主兼関東代官となる。ここから、関東代官伊奈氏の歴史が始まる。
 武蔵小室藩は今日の埼玉県伊奈町を中心域とする小藩であり、信州に旧領があった伊奈氏が関東における初期の拠点としたことで、伊奈の地名が今日でも長野(伊那市)と埼玉に並存することとなった。
 関東代官としての伊奈氏は利根川改修工事をはじめとする関東近郊各地での治水事業や農業改良など、歴代にわたり民生の発展に尽くしたことで知られる。武家ながら軍政より民政で事績を残したという点で、戦乱が終止した近世を象徴する武家官僚であるとともに、領民搾取が常識の封建時代にこれほど民生に尽力した領主は世界史的にも稀有である。
 しかし最期はその名声、強大な権限があだとなり、お家騒動を口実に幕府から改易処分を受け、関東代官職を追われてしまう。こうして、幕府自体の終焉より70年以上早く、関東代官伊奈氏の歴史は事実上終幕を迎えた。
 実は、伊奈氏はそれ以前、大名としても無嗣改易により旗本に降格された歴史があり、大衆的な人気を持ちながら、悲運の一族であった。当連載は、そんな稀代の封建領主一族をめぐる小さな物語である。