歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

弥助とガンニバル(連載第2回)

一 プロローグ
 :アフリカ奴隷貿易の始まり

 アフリカ人を捕縛して連行、奴隷として市場で売買するアフリカ奴隷貿易の始まりを正確に捉えることは難しいようだが、少なくともこれをシステマティックに始めたのは、アラブ人商人であったことは間違いない。アラブ人による奴隷貿易預言者ムハンマドによるイスラームの創唱以前から存在していたと見られる。
 ムハンマドは教理上、人種差別に否定的であり、彼の言行録ハディースでは「アラブ人の非アラブ人への優越、非アラブ人のアラブ人への優越、そして白人の黒人への優越、そして黒人の白人への優越も敬虔さによるもの以外は存在しない」と述べられている。
 しかしながら、預言者奴隷制には反対せず、自身も奴隷所有者であった。同時に、ムハンマドは奴隷への温情を説き、奴隷主による奴隷解放を善行として奨励した。実際、ムハンマドの黒人奴隷ビラール・ビン‐ラバーフは預言者から大切にされ、最初期のイスラーム入信者となった。
 ムハンマドの没後、イスラーム教団が征服活動により帝国化していくのに伴い、奴隷貿易も次第に拡大していくが、アフリカ大陸ではアラビア半島からも近い東アフリカ沿岸部が中心地として開拓されていく。
 東アフリカ沿岸部からの黒人奴隷は、ザンジュと呼ばれた。この人々は今日のバントゥー系諸部族と見られるが、かれら自身、商人としてアラブ人やペルシャ人とも交易していた。そうしたバントゥー‐アラブの融合の結果、今日この地域における共通語であるスワヒリ語とスワヒリ文化が形成される。
 しかし、東アフリカ沿岸部のスワヒリ諸都市の支配層は移住してきたアラブ人商人層が占めており、ザンジュは被支配層にして奴隷供給源に貶められていく。特にイスラーム帝国としてのアッバース朝時代、ザンジュは兵士や農業労働力として使役させられた。
 そうした状況下、9世紀後半のアッバース朝下に発生した大規模な奴隷反乱がザンジュの乱である。もっとも、反乱首謀者はアリー・ブン・ムハンマドなる素性不詳のアラブ人であったが、反乱は彼に煽動されたメソポタミア南部のザンジュ農業奴隷が主体となって引き起こされた。かれらは、その過酷な待遇に不満を募らせていたのだった。
 ザンジュの乱は一過性にとどまらず、弱体化しつつあったアッバース朝の隙をついて10年以上に及ぶ一種の革命政権の樹立にまで至るが、最終的にはアッバース軍に敗北した。
 このような大規模な反乱はあったものの、それが奴隷制廃止に結びつくことはなく、ザンジュ奴隷の供給は何世紀も続いた。かれらは遠く中国にまで「輸出」され、ザンジュは中国語でも「僧祇」の漢字を当てられた。
 こうしたザンジュに対する扱いの根底には、10世紀のアラブ人地理学者アル‐ムカッダスィーの言葉「ザンジュは黒い皮膚、平らな鼻、縮れた髪を持つ、理解力や知能に乏しい人々である」に象徴される、ムハンマドの教えからも外れた人種差別的価値観があった。