第19話 ノルマン・シュワネリー
ノルマンディー地方の保守性を示す近世の重要な出来事として、フランス革命に対する反革命戦争の一つであったシュワネリーの中心地となったことがある。シュワネリーとは、半伝承的な王党派・反革命派戦士であるジャン・コトローのあだ名をシュワン(寡黙な人)と言ったことに由来している。
コトローは木こりの息子とも言われる平民の出自であり、三人の兄弟とともに、王党派とカトリックの牙城であったマイエンヌで1793年に勃発した反革命蜂起のリーダーとなった。マイエンヌはノルマンディーやブルターニュにも近い内陸地域であり、マイエンヌ蜂起は反乱がブルターニュやノルマンディーにまで波及するうえで重要な契機となったのである。
ノルマンディー地方におけるシュワネリー―ノルマン・シュワネリー―を率いたのは、マリー・ピエール・ルイ・ド・フロテであった。ノルマンディー地方のアランソンで1766年に生まれたフロテは16世紀以来の貴族(伯爵)の出自であり、根っから王党派の職業軍人であった。
フランス革命が勃発した1789年当時はフランス歩兵部隊に所属しており、革命には一貫して反対し、亡命者の反革命軍に加わりつつ、1792年のヴァルミーの戦いに参加、その後は王党派勢力のある種の連絡将校のような役割も果たし、反革命戦線の形成に尽力した。最終的には郷里ノルマンディーでシュワネリーに合流して、その指揮官となったのである。
ノルマン・シュワネリーは1795年‐96年の第一次反乱と1799年‐1800年の第二次反乱の二次に分かれるが、第一次反乱でフロテの敵手となった革命派軍人は、彼と同年代の1768年生まれの軍人ルイ・ラザール・オッシュである。
オッシュは馬丁の息子で、一兵卒から衛兵隊下士官に昇進し、革命時には民衆派としてバスティーユ監獄襲撃にも参加し、革命後は革命軍の将軍として各地の反革命戦争を指揮、ヴァンデ戦争の鎮圧でも軍功を上げた。
その後もオッシュは総裁政府のもとで海外遠征を任されたり、陸軍大臣にも就任するが、1797年に29歳で病死した。存命していれば、ナポレオンの有力なライバルとなった可能性もあると言われるほど早世が惜しまれた人物であった。
第一次ノルマン・シュワネリーもオッシュの手腕で鎮圧されたが、オッシュ亡き後の第二次ノルマン・シュワネリーは国内での反革命戦争における最終フェーズと言えるものであった。この戦いは計約1万人が参加したと言われる大規模なものとなるが、ナポレオンによるブリュメール18日クーデターと彼の権力掌握は王党派にとって和平へ向かう重要な転機となった。
しかし、ぶれない王党派フロテは最後まで抵抗を試みるも、最終的には降伏した。彼はナポレオン政府から身の安全を保証されていたにもかかわらず逮捕された。捕虜となったフロテは軍事委員会により死刑を宣告され、ノルマンディー地方のヴェルヌイユ・シュル・アヴルで銃殺された。
こうして、ノルマン・シュワネリーは終結した。今日、フロテの名はまさにノルマンディー地方史にしか残っていないが、彼の終焉の地ヴェルヌイユ・シュル・アヴルのマドレーヌ教会内には彼を記念する銘板が残され、処刑現場にも記念碑が残されるなど、地元では記銘されている。