歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東代官伊奈氏列伝(連載第8回)

七 伊奈忠敬(1736年‐1778年)

 
 伊奈忠敬〔ただひろ〕は、大和郡山藩主柳沢吉里の六男として誕生したが、嫡子のない伊奈氏先代忠宥の養子となって後を継いだ。ここで、関東代官伊奈氏は初めて他家からの養子世襲となり、新たな歴史が始まる。
 なぜ柳沢家からの養子取りとなったのか詳しい経緯は不明であるが、柳沢氏は元来、甲斐武田氏の配下にあった武川衆に名を連ねる一族であったところ、一度断絶した後、同じ武川衆の別家が名跡のみ継いで再興した一族である。
 この新柳沢氏は武田宗家滅亡後に徳川氏配下に移籍したが、江戸開府後もすぐに大名に取り立てられることはなく、旗本級のまま、曲折を経て忠敬の祖父に当たる柳沢吉保館林藩主時代の5代将軍徳川綱吉の腹心となったことから、綱吉の将軍就任に伴い、幕府中枢に入り、老中格の大名川越藩主、さらには要地の甲府藩主にまで栄進した立志伝中の人物であった。
 吉保は綱吉死後は隠居して嫡子の吉里に後を譲ったが、吉里の時、甲府天領化されたことに伴い、西の大和郡山藩に移封され、以後、柳沢氏がおよそ15万石で固定される。一方、当時の伊奈氏は管理下の天領およそ30万石、開発新田2万石でその1割が役料として支給され、その他に旗本としての家禄4000石に家臣400人を擁したとされ、実質上は数万石級の譜代大名に等しい陣容であった。
 こうして旗本上がりで比較的新興の譜代大名であった柳沢氏との釣り合い上も、養子縁組相手として互いに利益があると見込まれたかもしれない。しかも、忠敬の実父吉里は名君の誉れ高く、2代甲府藩主、後に初代大和郡山藩主としても、検地や新田開発、用水路整備などの事績を上げ、関東代官伊奈氏に通ずるところがあった。
 忠敬自身も手堅い手腕の持ち主だったと見られ、前例に沿い、勘定吟味役首座にまで昇進する。こうして新たな柳沢系伊奈氏が円滑に世襲されていけば、うまくいく・・・はずだった。ところが、忠敬は関東代官在任6年ほどで死去してしまう。
 このことも問題だったが、当初嫡男に恵まれなかった忠敬は備中松山藩主板倉勝澄の十一男忠尊を婿養子に取っていたところ、後になって実子の忠善が生まれたのである。そこで忠尊が義弟の忠善を自身の養子とすることで、継承問題はひとまず片付いたかに見えたが、そうはならなかったのである。