歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

高家旗本吉良氏略伝(連載第8回)

七 吉良義央(1641年‐1703年)

 
 吉良義央〔よしひさ〕は、先代義冬の嫡男にして高家旗本吉良氏三代目、そして有名な赤穂浪士事件で討たれた当人である。彼が家督を継いだ時、高家吉良氏は祖父と父の功績により全盛期にあった。義央自身も見習いの頃から上洛使者をたびたびこなすなど、高家としての手腕は相当に評価されていたようである。
 先代までの吉良氏は分家で同じく高家今川氏との縁戚関係が強かったが、義央は生母が初代大老酒井忠勝の姪であったことから、幕府重臣の譜代酒井家と縁戚となったほか、自身も米沢藩主上杉綱勝の娘富子を正室としたことで、上杉氏との関わりが特に強くなった。富子との婚姻は「恋愛結婚」によるとの説は俗説で、実際は幕府及び上杉家の差配であったとされる。
 こうして義央時代の吉良氏は将軍綱吉治下の天和年間には大沢氏、畠山氏と並び、高家中の高家たる高家肝煎に抜擢され、まさに最盛期を迎えた。そのような義央晩年の絶頂期に赤穂事件が発生するのであるが、これについてはしばらくおき、しばしば事件の遠因として指摘される義央の人物像についてである。
 後世の文学作品である忠臣蔵などでは相当に脚色され、討たれても致し方ないかのような悪人視されてきた義央であるが、そのエピソードの大半は後世の作話である。むしろ義央が領地とした三河(現西尾市の一部)では、治水事業や新田開発に尽力した事績が記憶されている。これは領地に居住する大名と異なり、領地に関心を持つことの少なかった旗本にしては異例のことである。
 治水開発で名を残した点では、吉良氏と同時代、関東八州の代官として隆盛を誇っていた旗本伊奈氏にも通ずるところがある。ちなみに、伊奈氏の遠祖である荒川詮頼を吉良氏の支族とする見解もあり、両家は遠縁関係の可能性もある。
 さて、こうして地元では「名君」の名を残す義央であるが、江戸では義央に斬り付けた浅野長矩ら義央の指南で儀典に携わった大名たちを相手に陰湿ないじめや嫌がらせをしていたといった風評もある。しかし、同時代史料による裏づけはない。
 ただ、姻戚である上杉家における評判は芳しくないが、これは上杉家が無嗣断絶の危機にあった時、義央が嫡男綱憲を養子に差し出し、危機を救ったことに付け込んで、高家としての格式維持のため何かと出費の多い吉良家への財政援助を引き出して上杉家の財政を逼迫させたことへの不快感からであった。
 なお、上杉家の危機の原因となった3代藩主上杉綱勝の急死は義央による毒殺ではないかとの不名誉な説も提起されてきたが、これも同時代史料によりほぼ病死の裏づけがあり、後世の義央悪人視の風潮が作り出した俗説と見られる。
 とはいえ、身分は旗本なれど旧足利将軍家に連なる名門にして、官位は一般の大名を凌ぐ従四位上・左近衛権少将まで昇った義央が極めてプライドの高い人物であったことは想像に難くなく、そうした性格がやがて自身も家系も滅ぼす大事件の引き金を引いたことは否定できないであろう。