三 クルド人の分裂と離散
アイユーブ朝残存勢力
13世紀半ばにアイユーブ朝が衰亡した後、クルド人は現在まで続く分裂と離散の長い時代に入る。もっとも、アイユーブ朝といえども、それは王家がクルド系であったというにとどまり、本来のクルド人故地ではないエジプトを本拠とし、その支配領域内にはアラブ系やトルコ系諸民族などの他民族を包摂していたから、アイユーブ朝をもって純粋の「クルド王国」とみなせないことも確かである。
その意味では、アイユーブ朝の衰亡がクルド人の分裂と離散の直接の要因であったとは言えないが、アイユーブ朝の衰亡はクルド人の分裂と離散を促進したとは言えるであろう。広範囲にわたる分裂と離散の状況を簡単に整理することは至難であるが、ひとまずアイユーブ朝残存勢力とそれ以外のイスラーム教クルド人勢力、さらにヤジーディ教という異教系のクルド人勢力とに分けることができる。
そのうち、アイユーブ朝残存勢力は、王朝の衰亡要因の一つでもあった多数の分家が13世紀半ばにマムルーク朝や中東に侵攻してきたモンゴル帝国により滅ぼされた後も、わずかに残された分家が地域的な領主国のような形でしばらく残存したものである。
シリア西部の要衝ハマーにはサラーフッディーンの甥に当たるアル‐ムザッファル・ウマルを初代とする分家があったが、この分家はアイユーブ朝に取って代わったマムルーク朝とともに、モンゴル軍と戦ったため、マムルーク朝から功を認められ、属国的な地域領として存続を許された。
ハマー最後のアイユーブ家当主が1299年に死去した後、ハマーは一時的にマムルーク朝に接収されたが、1310年、マムルーク朝のスルタン・アル・ナーシル・ムハンマドの庇護の下、ハマーは地理学者・歴史家としても名を残す一族のアブ・アル‐フィダに返還され、ハマーのアイユーブ朝が再興された。
アブ・アル‐フィダは勇猛な戦士であると同時に、天地創造から1329年までの人類史を総覧する壮大な歴史書『人類史綱要』や、中国から大西洋諸島、フランクからスーダンに至る世界を28の地域に分割して解説した世界地理書『諸国の秩序』を著すなど、スケールの大きな学績も残した異色の統治者であった。
彼は1331年に死去し、息子のアフダル・ムハンマドが後を継いだが、最終的にマムルーク朝の君主の寵を失った彼は10年後に解任され、ハマーは正式にマムルーク朝の支配地に併合されたのである。
他方、南東アナトリアのチグリス河上流のハサンケイフにも、アイユーブ朝の残党による首長国が存続した。その成立起源は定かでないが、先祖を辿るとアイユーブ朝第7代スルターンのアル‐マリク・アッ‐サーリフ に行き着く。
この地域首長国は周辺強国からの侵略にさらされながらも、モンゴル系大国イルハン朝やトゥルク系の白羊朝から半独立状態を保ちつつ、マムルーク朝やトルクマン系の強国ドゥルカディル朝の属国として生き残り、1524年に首長家の内紛に起因する内乱を契機にオスマン帝国によって廃絶されるまで、数百年間存続した。
その間、15世紀初頭にはティムールの侵略により一時荒廃したが、領内には知識人や芸術家が定住し、好学の首長たちによって学術書籍の収集や図書館の建設も行われるなど、文芸が盛んであった。先のアブ・アル‐フィダを含め、こうした学芸への傾斜はアイユーブ朝の特色であった。