歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

高家旗本吉良氏略伝(連載第6回)

五 吉良義安(1536年‐1569年)/義定(1564年‐1627年)

 
 吉良義安は、吉良氏当主の中で久方ぶりに生没年が確証されている人物である。実際、滅亡しかけていた吉良氏は彼の代で一度再生するのである。そのきっかけは、義安が徳川家康と親交があったことによっている。
 前回も言及したとおり、義安は分家の戦国大名今川氏に逆らい、織田氏と通じたために今川氏に囚われ、人質として今川氏本拠の駿府で青年時代を送ることとなった。天文十八年(1549年)、13歳の頃であった。
 ちょうど同じ頃、今川氏の下へ人質として送られてきたのが、当時は竹千代といった後の家康である。彼はいったん駿府へ護送中、織田氏に略取された後、人質交換で改めて駿府へ送られるという数奇な経緯をたどっていた。
 家康は義安よりも7歳ほど年下であったが、両人は同じ三河出身の人質同士として親しくなったようである。義安は家康の元服時に理髪役を務めたというから、両人はおそらく義兄弟のような関係にあったのだろう。
 今川氏が有名な桶狭間の戦いに敗れ、没落すると、両人も解放され、帰郷を許された。この頃の吉良氏当主は今川氏の傀儡的存在だった義安の弟義昭だったが、彼は家康に背き、三河一向一揆に加担して敗北・敗走した。
 これを受けて、家康は親交のあった義安を新たな吉良氏当主に立てて、家系の存続を許したのであった。義安は家康の叔母を妻とし、松平氏と縁戚関係を結んだ。これ以降、吉良氏は松平=徳川家臣として定着する。その意味で、義安こそは近世吉良氏の祖と言うべき存在である。
 なお、別の説では、義安は桶狭間で戦死した義元に代わり今川氏の新当主となった氏真によって改めて駿河に幽閉され、そのまま没したというが、これでは義安が家康と縁戚関係を結び得た理由が十分に説明し難い。
 いずれにせよ義安は間もなく33歳で早世し、後は幼少の嫡男義定が継いだ。家系は再び揺らぐが、家康の叔母でもある義定の母俊継尼が鷹狩りに来た家康に直談判して義定の取立てを依頼、引き続き徳川家臣としての地位を維持したという逸話が残る。