歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

南朝後統列伝(連載第7回)

八 西軍南帝(1454年‐?)

 
 長禄の変による後南朝の瓦解は、お家再興を目指していた赤松氏遺臣隊の勇猛かつ巧みな作戦によるところが大きい。彼らは10年以上をかけて神璽が奥吉野にあることを突き止めた幕府に掛け合い、決死の神璽奪還作戦を自ら請け負ったのである。
 赤松隊は変の一年前にまず奥吉野の後南朝潜伏地に諜報員を送り込み、後南朝勢力に浸透して情報収集を行い、目標である神璽の具体的な在りかを突き止めた。そのうえで、ある種の精鋭特殊部隊による奇襲攻撃を仕掛けて神璽を奪還し、一宮と二宮を討つが、一度は吉野郷民に神璽を奪い返される。しかし諦めず、南帝母儀の在所で保管されていることを新たに突き止め、翌年、改めて母儀在所を攻め、ついに神璽奪還に成功したのである。
 こうして、神璽ばかりか両宮も失い、かつ後南朝正嫡である小倉宮家流の南天皇も負傷死したことで、南朝支持勢力そのものが崩壊したかに見えたが、前回推定したとおり、南天皇の遺児は生き延び、おそらく紀伊国の何処かで庇護されていた。
 しかし、長禄の変後の南朝支持勢力は独自の軍事動員力を喪失しており、もはや武装蜂起するだけの力量はなかった。転機は外部からもたらされる。紀伊の守護でもあった有力守護大名・畠山氏の内訌である。
 これは、畠山宗家において、文安年間に円胤の蜂起を鎮圧した畠山持国の甥・政長(父・持富が持国の養子だった)と遊女との風評もあった愛妾を母とする実子・義就の間で起きた家督争いで、義就側が南朝支持勢力に接近、利用を図ったのである。
 この連携関係は長禄の変から数年後の寛正二年(1461年)頃には始まっており、義就は同六年(1465年)に後南朝拠点のあった奥吉野の川上から河内に向けて出撃しているほどである。最終的に、義就が応仁元年(1467年)に政長を京都の上御霊神社で破ったことが応仁・文明の乱(以下、「応仁の乱」という)の端緒とみなされている。
 乱に際して、義就は山名宗全と連合、一方の政長は細川勝元と連合したことから、山名を総帥とする西軍と細川を総帥とする東軍の対立構図が形成された。そして、東軍は後花園上皇及び後土御門天皇に加え、時の将軍・足利義政を擁したのに対し、西軍は義政と不仲の将軍舎弟・足利義視の参加を得て対抗しようとした。
 この時、西軍が「南帝」として陣営に引き入れたのが、まさに南朝後統であった。同時代史料にも「小倉宮御息」として登場してくる人物で、文明三年(1471年)当時18歳とされている。よって、享徳三年(1454年)生まれであり、まさに彼はかの南天皇の遺児と推定される人物と符合するのである。
 そのことから、西陣南帝と呼ばれることもあるが、同時代史料では「新主上」「南主」など様々に呼ばれている。ただ、西陣は京都の地域名となった西陣(元来は西軍が陣を置いたことに由来)と紛らわしいので、ここでは「西軍南帝」と呼ぶことにする(以下では、単に「南帝」という)。
 この南帝擁立工作は、日尊なる僧侶が仲介していた。日尊は後醍醐天皇末裔を称し、自ら将軍となる所存とされるほどの野心家であったようだが、南朝工作員として関係方面に密書を送付し、工作活動をしていたところを東軍に捕縛され、処刑されてしまう。
 しかし、この一件は西軍による南帝擁立工作の妨げとはならなかった模様で、擁立工作は粛々と進められる。南帝は文明二年二月に紀伊有田郡で旗揚げした後、同三年八月には入洛を果たし、畠山家臣の警護を受けて、新帝らしく振舞っていたという。
 この工作が挫折に向かうのは、文明四年になると東西の和睦交渉が開始されたのに続き、同五年には西軍総帥の山名宗全が死去したせいである。南帝は最大の後ろ盾を失ったことになる。
 しかも、当初南帝擁立に積極的だった足利義視が変心し、異を唱えるようになったことも打撃であった。義視の変心の理由として、仮にも西軍が勝利し、自らが将軍に就いた場合、今更北朝朝廷を南朝に立て替えることは現実的でないと打算したせいかもしれない。
 文明九年(1477年)に入ると、畠山義就を含む西軍諸大名らが領国に帰還していき、乱は終息したと理解されている。こうなると、南帝はもはや用済みである。実際、早くも文明十年には南帝が京都から東海に流され、甲斐の小石沢観音寺に滞在したとの情報が現れる。
 しかし、南帝は当地を脱出したらしく、文明十一年七月には越後から越前に入ったとの情報が現れる。越前は南朝ゆかりの地であり、足利尊氏と対立し比叡山にこもった後醍醐が比叡山から帰還する際に、皇子の恒良親王を配して「北陸朝廷」の樹立を企てた地である。
 しかし、それとて百年以上も前のこと、越前ももはや安住の地ではなかった模様で、間もなく高野へ向かおうとする南帝の情報が出る。南帝は宗全が安清院(不詳)に入れていたともされるから、出家の法体であったとすれば、高野山へ向かうつもりだったのかもしれないが、到達した情報はなく、その後の行き先は不明である。
 それから、20年を経た明応八年(1499年)に南帝と思しき人物が再び東海に流され、三島に到着したところ、北条早雲が諫めて相模国に送ったという情報が現れる。早雲がなぜ南帝を自身の本拠である相模国に送還したかは不明であるが、幕府のお尋ね者を膝元に置けば、幕府との何らかの交渉材料になると算段したものか。
 しかし、早雲が南帝を利用した形跡はなく、以後、南帝の消息情報は途絶する。少なくとも、南帝と思しき人物が戦国時代初期、40歳代半ばまで存命していたらしいことまではわかるが、その後、相模で生涯を終えたのか、改めて他所へ移住したのかは不明である。
 ちなみに相模地方に南帝にまつわる何らかの伝承が残されていないかどうかであるが、特に見当たらないところを見ると、相模国人にとって南帝は未知の客人ないしは囚人であって、特別な関心を引く存在ではなかったのであろう。
 戦国時代以降は南朝そのものへの関心が失われ、次に南朝が再発見されるのは遠く江戸幕末津藩の漢学者・斎藤拙堂が「後南朝」の用語を提起し、さらに水戸学派歴史学を通じて南朝正統論が新たな史観として隆起した時を待たねばならなかった。