歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

南朝後統列伝(連載第6回)

六 南天(1430年?‐1458年)

 
 クーデターとしては失敗に終わった禁闕の変により神璽の奪取に成功したことで、南朝復興運動は朝廷としての最重要の印は手にした。よって、「後南朝」と呼び得る実態を備えたのはこの時であり、以後、幕府側に神璽を奪還されるまで15年にわたり、後南朝が存在したと言える。
 拠点としても、追い込まれていた紀伊北山から再び奥吉野まで前進・復帰し得えたとはいえ、実態は奥吉野の潜伏勢力であるから、朝廷としての組織機構を備えていたとは思えないが、少なくとも意識の上では「朝廷」であった。こうした後南朝の主は誰であったのだろうか。
 その点、禁闕の変を首謀した源(鳥羽)尊秀が逃げ延びて「即位」したとの民間説もあるが、この説は採れない。というのも、本連載では尊秀を変後に隠岐に配流され、間もなく卒去した小倉宮教尊のコードネームと推定しているからである。
 その点、注目すべきは南天皇という人物である。南天皇は伝承的人物だが、本連載ではあえて実在性をポジティブにとらえてみたい。南天皇は、嘉吉の乱で没落した後、お家再興を目指して志願した赤松遺臣の神璽奪還作戦部隊により襲撃された長禄の変(1557年)で一宮と二宮という兄弟宮が討たれた後、落ち延び、十津川(現奈良県十津川村)で即位したとされる。
 伝承上、南天皇は永享二年(1430年)、野長瀬盛矩の娘を母として、小倉宮恒敦の第四皇子として伊勢国司北畠教具の館で誕生したとされるが、恒敦は1422年に死去しているので、成り立たない。むしろ世代的には恒敦の孫、すなわち小倉宮聖承の子息に近い。その点、嘉吉の乱で赤松氏が擁立しようとした聖承の末子が注目される。すなわち、教尊の弟である。
 ちなみに、南天皇の母が出た野長瀬氏とは元来は熊野の近露[ちかつゆ]で発祥した熊野八庄司にも数えられる一族にして、清和源氏を称し、吉野の野長瀬荘をも拠点としつつ、一貫して南朝派を貫いた土豪的存在であった。
 一方、南天皇が一宮・二宮の討ち死に後に十津川で即位したというのも不自然である。小倉宮流なら後南朝正嫡のはずであるから、本来的な後南朝の主のはずである。よって、南天皇は禁闕の変後に擁立された後南朝の「天皇」と推定される。
 その点、手がかりとなる情報は、応仁の乱に際して西軍が擁立した西陣南帝の父として「岡崎前門主」が記録されていることである。この人物の系譜も不明であるが、岡崎が京都岡崎であれば、当時は岡崎にあって文安四年に紀伊北山で決起した護聖院宮流円胤も還俗前に在籍した円満院が想起される。
 南天皇もある時点まで円満院の門主を務めていたが、禁闕の変後、後南朝からの要請で円満院から還俗、南帝に即位したという筋を想定できる。ただ、門主の還俗は話題となり、史料に残されても不思議はないが、そうした記録はないところを見ると、実際は門主より低位の僧侶だったのかもしれない。
 西陣南帝は同時代の史料上、享徳三年(1454年)生まれと推定されているので、岡崎前門主南天皇が父とすれば、長禄の変の三年前に世継ぎが誕生していたことになる。ちなみに、神璽は一度吉野郷民によって奪い返された後、最終的に「南帝母儀」の在所で発見・奪還されることになるが、「南帝母儀」とは南天皇の母、すなわち聖承未亡人か、もしくは南天皇の妃であろう。
 南天皇は神璽が奪還された後、長禄二年(1458年)八月、再び赤松氏遺臣部隊の襲撃を受け、重傷を負った後、家臣の野長瀬盛高に護衛されて落ち延びる途中、同年12月に紀伊国牟婁郡光福寺(現三重県熊野市)にて崩御したとされる。
 こうして一宮、二宮の死に次いで、南天皇の死によって後南朝は瓦解したが、南天皇遺児は無事生き延び、依然として南朝支持勢力が根強かった紀伊国の何処かで厳重に庇護・ 傅育されていったと考えられる。

 

七 一宮/二宮(生没年不詳)

 
 上述のように、南天皇が後南朝の真の主とすれば、赤松遺臣の神璽奪還作戦部隊によって討たれた一宮は、天皇よりは皇太子的立場、あるいは南天皇が上皇、一宮は天皇のような関係性であったとも考えられる。二宮は後南朝征夷大将軍だったとの民間説もある。
 いずれにせよ、両宮まとめて「吉野殿」とも記録されている兄弟宮の名前も系譜も不明のままである。10年以上、神璽のありかを必死に探索していた幕府にとって旧南朝系の自称宮の素性などは関心の対象外であり、番号で呼ばれる記号的存在にすぎなかったのであろう。
 他方、地元に伝えられる位牌では大和の北山に在所した一宮を自天勝公、弟で河野郷に在所した二宮を忠義禅定と記している。民間伝承では自天王と忠義王という呼び名も膾炙している。先の尊秀即位説では尊秀を自天王に当てるが、この説を採れないことは前述した。
 その点、手がかりとなる情報として、享徳四年(1455年)に京都の相国寺慶雲院主梵勝蔵主と舎弟梵仲侍者の兄弟僧が逐電し、行き方知れずとなったという事件がある。この二人は南朝第3代長慶天皇の皇子・玉川宮の子に当たる兄弟で、幼くして相国寺に入っている。
 その点、東京帝大史料編纂掛や宮内省図書寮編修課長として帝室制度史編修事業にも携わった芝葛盛は上記位牌に見える「勝」・「忠」(仲)の字が一致していることから、梵勝・梵仲兄弟を一宮と二宮に当てる見解をつとに出していたが、この説は今日では顧みられていない。
 しかし、兄弟僧侶が着の身着のまま、無一文で逐電しても生活できず、野垂れ死ぬか、どこかで発見・捕縛されるので、確実に庇護される行き先が不可欠である。兄弟にとってのそれは後南朝が陣取る奥吉野しかない。
 とすれば、兄弟僧の逐電は思いつきではなく、後南朝側の招請によるものと推定される。逐電が南天皇に世継ぎが誕生した翌年であったことも示唆的である。1454年の世継ぎ誕生で、南天皇に万一があった場合に備え、幼い世継ぎが成長するまでの中継ぎ的な宮が必要になったであろう。それで、縁戚でもある玉川宮流の梵勝と梵仲兄弟が呼び寄せられたのである。
 その点、兄弟が在籍した相国寺という寺院も鍵となる。相国寺足利将軍家伏見宮家等ゆかりの禅寺であり、京都五山の序列第二位に列せられる名刹で、室町幕府を象徴する鹿苑寺金閣寺)、慈照寺銀閣寺)を山外塔頭として擁する名刹でもある。
 一方で、相国寺には禁闕の変に参画した通蔵主が在籍、一時は弟の金蔵主も在籍していた。南朝勢力はこうした京の有力寺院内にも工作員を潜入させており、情報連絡網を形成していたとしか思えない。梵勝・梵仲兄弟の逐電もそうした連絡網の手引きによる計画的なものだったと考えられる。
 ちなみに、長禄の変から30年も経た文明十九年(1487年)に時の将軍・足利義尚が昔、相国寺に置いた南朝皇子兄弟(梵勝・梵仲)の扱いについて改めて調査を命じたり、延徳元年(1489年)にまさに相国寺で鎮魂行事として「南方両宮三十三回忌」を挙行したりしている事実も偶然と言い切れず、幕府側もこの頃には両宮と梵勝・梵仲兄弟の同一性を察知していたことを示唆するのではないだろうか。
 一方、吉野の民間伝承においては、一宮=自天皇、二宮=忠義王は神璽を守って討ち死にしたことで英雄視され、厚く祀られた。特に毎年奈良県川上村では、享徳元年(1452)二月五日に自天王が即位し、宮中で正月に天皇に拝賀する朝賀拝礼式を行ったとされる伝承に基づき、毎年二月五日に御朝拝式と呼ばれる式典を挙行する習俗が今も継承されている。
 御朝拝式は自天王が討たれた際に仇を討った吉野郷士の子孫が執り行い、「筋目」と呼ばれる家系により継承されてきた習俗行事であり、式では16の菊の御紋章のついた裃を着用し、榊の葉を咥えた筋目衆たちが自天王神社に御幣を奉納して収蔵庫前に整列、自天王が着用したとされる甲冑・刀を御神体とあがめ、一人ずつ拝賀するという(外部サイト)。
 ちなみに、享徳元年(1452)二月五日に自天王が即位したとされる伝承から推すと、南天皇の即位年も同年と振り替えて見る余地があるかもしれないが、そうだとすると、禁闕の変から10年近く、後南朝の主は不在だったことになる。