歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ノルマンディー地方史話(連載第13回)

 第13話 ノルマン慣習法とノルマン憲章
 
 イングランドプランタジネット朝「欠地王」ジョンが、フランス・カペー朝「尊厳王」フィリップ2世に敗れ、ノルマンディー地方を失った後も、イングランドは公式に領有権を主張し続け、最終的にノルマンディー地方の領有権を放棄したのは、半世紀以上後、ジョンの息子ヘンリー3世の時代である。
 ヘンリー3世は父が失った領土を奪回しようとフランスを攻めたが失敗し、逆にプランタジネット家本来の故地アンジュ―まで占領されてしまった。その結果、1259年、ヘンリー3世と「聖王」ルイ9世の間で締結されたパリ条約により、ノルマンディーのほかアンジュ―まで含む広大な大陸領土をフランスに割譲するという大幅な譲歩を強いられる結果となった。
 
 こうしてノルマンディー地方は13世紀以降、仏領土に編入されたとはいえ、長らくノルマンディー公国及びノルマン朝以降のイングランドに統治されてきた住民たちは、簡単にフランスに恭順したわけではなかった。反乱の不安から、フィリップ2世は要塞を築造したが、これが現在も残るルーアン城である。ノルマンディー地方では、初の本格的な城塞と言える。
 フィリップ2世はこうした新たな支配者を象徴する物理的威嚇のもとに代官を派遣してノルマンディーを統治しようとしたが、法に関してはノルマンディー公国時代以来の歴史を持つノルマン法が適用され続けた。ノルマン法はバイキングの慣習に由来する古法で、フランス領となった13世紀になって、「大慣例集」などとして成文法化されたのも、ノルマンディー住民のささやかな抵抗の表れであったのだろう。
 
 在地豪族たちもなかなか強情であった。かれらは1315年、こちらも「強情王」の異名を持つ時のフランス王ルイ10世に圧力をかけてノルマン憲章を受諾させた。ノルマン憲章は、ちょうど「欠地王」ジョンがイングランドで諸侯に飲まされたマグナ・カルタにも似た憲法文書であり、ノルマンディー在地豪族の権益を保障する法的な担保でもあった。
 この文書は明文上、自治権を保障するものではなかったが、これによりノルマンディーは限定的な財政自治権を獲得した。例えば、12世紀に遡る行財政機関である財務法院の決定をフランス王が覆すことはできず、またその承認なく新たに課税することもできないものとされたのである。
 
 ちなみに、英仏海峡に浮かぶ美しい島々から成るチャンネル諸島は、歴史的にノルマンディー地方島嶼部とみなされてきたが、パリ条約で本土が仏領化された後も、英国王領地という変則的な形態で分離され、イングランド王の下に残された。
 そのため、チャンネル諸島では本土以上にノルマン慣習法が濃厚に維持された。諸島は14世紀に入って一時フランスに占領されたこともあるが、その後、1341年に時のイングランドエドワード3世が憲章により慣習法を承認、その後も数次にわたり憲章が再確認された。
 こうした経緯から、今日まで英王室属領という特殊な地位を維持しているチャンネル諸島では、独自の法体系とともに、ノルマン語の特徴を強く残すフランス語ノルマン方言が保存されている。