歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ノルマンディー地方史話(連載第8回)

第8話 庶子公から征服王へ

 
 ロベール悪魔公がエルサレム巡礼からの帰途死去すると、生前に後継指名されていた長男ギヨーム2世が新しいノルマンディー公に即位したが、この時わずか8歳ほどの子どもであった。そのうえ、両親は正式に婚姻していなかったから、「庶子公」の異名が付いた。
 当然単独で統治できず、当初は大叔父のルーアン大司教ロベールが摂政役となったが、高齢の彼が間もなく死去すると、公国は諸侯が相争う混乱状態となった。この混乱は宗主のフランス王アンリ1世の介入を受けて内乱を収拾した1047年まで続く。
 この時、ギヨームはようやく20歳、どうにか単独で統治できる年齢に達していたが、血縁に当たるフランドル伯の娘マティルダとの婚姻をローマ教皇から無効とされるなど、その地位は安定しなかった。

 
 このような不安定な立場にあったギヨームはその後の約20年は、領内の支配を固めることに集中した。この間1059年にはローマ教皇の代替わりにより婚姻無効宣言も取り消され、ギヨームは対外的にも安定を得た。続いて若干の領地拡大も実現した。ここまでで終わっていれば、彼は単に第7代ノルマンディー公として記録に残されたにすぎなかったに違いない。
 しかし、ギヨームの野心的な目は対岸のイングランドに注がれていた。当時、イングランドはギヨームもよく知るエドワード王が統治していた。即位前のエドワードはデーン人の侵略を逃れて母エマの郷里ノルマンディーで20年以上亡命生活をしていたことがあったのだ。
 このエマは、第3代ノルマンディー公リシャール1世の娘でもあったから、母方を通じてエドワードとギヨームは血縁関係にあった。こうしたことからも、エドワードはノルマンディー公に好意的であり、ギヨームにイングランド王位継承を約束したとされる。

 
 敬虔だが柔弱だったと言われるエドワードをうまく丸め込んで王位継承の約束をさせたのかもしれないが、抜け目のないギヨームは修道士的純潔にこだわり嫡子を持たなかったエドワード後継候補の一人と目されていたエドワード義兄のハロルド・ゴドウィンソンからも王位継承の約束を取り付けてあった。
 果たしてエドワード没後にハロルドが後継者となったのだったが、ハロルドは約束を反故にした。これに反発したのが、ギヨームである。封建時代、騎士間の誓約は現代人の想像を超える絶対的なもの、誓約違背は死をもって償うべき罪悪であった。
 こうして、ギヨームはイングランド侵攻の兵を挙げることになる。この挙兵は、ギヨームにとって侵略以上に決闘に近い意義があったのかもしれない。この歴史的にも見事な電撃作戦の経過は有名なバイユー・タピストリーに活写されている。そこで描かれている作戦の特徴などについては次話で取り上げてみたい。

 
 イングランド征服に成功した庶子公ギヨームは、晴れてイングランド王ウィリアム1世として即位する。庶子公から征服王への躍進である。この事業を成功させた彼は、軍事的な手腕と政治的な手腕を併せ持っていた。そこがそれ以前のイングランド征服者と彼を分ける違いであり、征服王は当時の欧州では異例の国王中心の近世絶対王政に近い強力な封建王朝をイングランドに築いたのであった。
 ギヨームが開いたノルマン朝自体は3代で終わるが、血統的にみると、現英王室はギヨームの孫娘マティルダを介して彼の遠い子孫に当たるため、実質上ノルマン王家は現在まで継続しているとみなすこともできる。ノルマンディーから持ち込まれたフランス語の語彙と合わせ、ノルマン・イングランドは恒久的である。