歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

クルド人の軌跡(連載第3回)

一 クルド人の形成

イスラーム化と地域首長国の形成
 中世におけるクルド人の活動が史料に現れるのは、10世紀半ばである。それまでクルド人は国家的なまとまりを持たず、部族ごとに遊牧生活を営んでいたと考えられるが、10世紀になると地域ごとにいくつかの首長国に統合されていった。
 この間、西アジアではアラビア半島に興ったイスラーム教団が武力も備えつつ、周辺地域に遠征を行って以来、イスラム帝国アッバース朝の支配の下、この地域のイスラーム化が確定していた。クルド人集住地域は西アジアから一部カフカ―スにまたがる辺境的な山岳地帯であったが、このような辺鄙な地域にもイスラームは浸透していた。
 そうしたクルド人イスラーム化の過程については史料が乏しく、不明な点が多いが、10世紀に現れるクルド人首長国はすべてイスラーム教を奉じていたことからみて、10世紀までにはクルド人イスラーム化が確定し、イスラームクルド人の国家的統合の触媒となったことは間違いない。
 なお、クルド人首長国は宗派的にはスンニ派主流という点で、同じく10世紀代に現れ、アッバース朝の実権を奪う形で一時西アジアの覇権を握ったブワイフ朝以来、シーア派が浸透していくイランとは対照的な歴史を歩むことになる。
 これら最初期のイスラームクルド人首長国として、10世紀代にはシャッダード朝、ラワード朝、ハサンワイフ朝、アナーズ朝、マルワーン朝の五つの首長国が競合していた。
 このうち、ラワード朝首長家の祖はこの地に移住してきたアラブ人であったが、クルド人を束ねてクルド化したものであり、クルド人イスラーム化を象徴する首長国と言えた。また、一介の羊飼いが建国したマルワーン朝に関しても、その出自をアラブ系とする資料もあり、イスラーム化の過程ではアラブ人移住民の影響が窺えるところである。
 これらの首長国の支配構造は一円支配的というよりは、各地域の主要都市を中心として点と点をつなぐような比較的支配密度の低い「国」であり、部族国家的な性格のものであった。
 五つの首長国中、最も早くに形成され、かつ長く存続したのは951年から1199年まで続いたシャッダード朝であるが、シャッダード朝を含め、競合国を征服して統一国家を樹立できた首長国は一つもなかった。その要因として根強い部族主義の伝統に加え、11世紀には中央アジアから出たセルジューク・トルコ西アジアの覇権を握ったことがある。
 クルド首長国は、セルジューク・トルコ(大セルジューク朝)より長く存続した上掲シャッダード朝を除けば、11世紀代に順次解体し、セルジューク・トルコの支配に置き換わっていく。その結果、クルド人トルコ人の結びつきが強まる。