歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イラクとシリア―混迷の近代史(2)

[E:zero] オスマン帝国崩壊

 イラクとシリアはイスラーム化以前はもちろん、以後も各々固有の歴史を持つが、オスマン帝国の全盛期であった16世紀から17世紀にかけて相次いでオスマン領土に編入されたことで、形式上は一つの「国」となった(地方行政区分は別)。そのため、それ以降は並行的な歴史を歩むことになる。
 そうしたイラクとシリアの近代史は、共にオスマン帝国の支配から解放された1917年をもって始まるとみなし得るが、オスマン帝国もその晩期には体制延命策として一定の近代化改革を進めていたので、その限りでは両国の近代史の始まりをもう少し早く取ることもできる。ただ、トルコを本拠地とするオスマン帝国にとって、イラクとシリアは周縁であり、近代化改革の中心地ではなかった。

 末期のオスマン帝国は図らずもヨーロッパの戦争である第一次世界大戦にドイツ側で巻き込まれ、当事国となり、敗北した。その内部的な要因の一つとして、フサイン・イブン・アリーが指導した「アラブの反乱」があった。
 現ヨルダン王室の祖でもあるフサイン・イブン・アリーは、預言者ムハンマドも属し、代々聖地メッカを含むヒジャーズ地方の宗教指導者兼統治者を世襲してきたハーシム家の当主であり、オスマン帝国からもその地位を認証されていた権威あるアラブ人指導者であった。
 しかし、末期のオスマン帝国は体制延命のため、折から高まるアラブ民族主義を抑圧していた。オスマン帝国が戦勝すれば、自らの地位も脅かされることを恐れたフサインと、アラブ人勢力を利用してオスマン帝国を分裂させることを画策していた英国の利害が一致した。

 その同床異夢の合作的産物が、1915年にフサインと英国外交官ヘンリー・マクマホンとの間で取り交わされた「フサイン‐マクマホン協定」である。これによると、英国はアラブ人勢力の反乱を支援し、オスマン帝国領内のアラブ人地域の独立を容認するとされた。
 この「協定」は国家間の正式な条約ではなく、個人的な往復書簡の形をとるに過ぎず、その法的効力は疑わしいものだったが、近代的な外交交渉に不慣れなフサインは、この協定によりイラク・シリア・サウジアラビアにまたがる包括的な「大アラブ王国」の建設が承認されたものと拡大解釈した。そしてアラブの部族勢力を結集し、連合国側の支援を得て、1916年には「独立」を勝ち取ったかに見えた。

 ところが、英国側では「大アラブ王国」の建設など認めるつもりはなく、連合国の英仏露主要三国は大戦中の1916年に「サイクス‐ピコ協定」を結び、中東の三国分割を密約していた。翌年のロシア革命後に、権力を掌握したレーニン政権によって暴露された同協定によれば、現在のイラクの大部分は英国が、イラクの北部モスルとシリア方面はフランスが支配する取り決めとなっていた。
 1917年にイラクとシリアが相次いで連合国軍によって落とされると、同地域は英仏合同の「占領敵地統治機構」によって占領されたのであった。結局、フサインは旧来の根拠地であるヒジャーズのみを支配領域とする地方的な「ヒジャーズ王国」の王に納まるにとどまった。

 それでもフサインは「アラブ人の王」を称し、最終的にオスマン帝国が共和革命により崩壊した後の1924年にはそれまでオスマン皇帝に継承されていた「カリフ」への就任を一方的に宣言したが、アラブ世界では必ずしも受け入れられず、かえって対抗勢力であるサウード家(現サウジアラビア王室)との敵対関係を強めた。
 しかし、自らカリフを称したフサインの「大アラブ王国」構想は、ある意味では同様に包括的なカリフ国家の建設を狙うとされる現代の「イスラーム国」の構想に重なるところがある。従って、かれらがほぼサイクス‐ピコ協定の線に沿っている現在のイラク・シリアの国境線を敵視し、その変更を強調・宣伝することには一定の理由があるのである。