歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イラクとシリア―混迷の近代史(4)

[E:two] クルド人問題

 イラクとシリアの近代史を考える上で見落とせないのは、クルド人問題である。クルド人は、イラク・シリア近代史の影の主役である。元来、クルド人は非アラブ系(イラン系)のイスラーム勢力として、中世には十字軍戦争の英雄であるサラディンを輩出するなどしたが、彼が創始したアイユーブ朝も長続きしなかった。
 その後、16世紀以降のクルド人は大小無数の地方首長国に分裂して、半独立状態を保つが、統一国家を形成しないまま、19世紀にオスマン帝国(一部はイラン)に吸収されていった。オスマン帝国イスラーム地域を包括支配する限りでは、クルド人も帝国臣民として「統一」されていたわけだが、そのオスマン帝国敗北の英仏分割統治は、クルド人居住地域を恣意的に分断する恐れがあった。

 これに対し、クルド人勢力も決起する。1919年、当時ドホーク県の知事職にあったマハムード・バルザニが反英蜂起のジハードを呼びかけたのだった。バルザニはクルド系有力部族の出身であると同時に、イラクに拠点のあったイスラーム神秘主義カーディリー教団の指導者でもあった。
 しかし、このクルド第一次蜂起に集まったのはわずか500人ほどであり、圧倒的な英軍の前に敗北、バルザニはいったん拘束された後、インドに追放された。残党はゲリラ戦で英軍を苦しめる。一方、トルコも領土回復に乗り出していた。
 こうした状況を見て、英国は22年、バルザニを呼び戻し、改めて英軍占領下の知事に任命するが、これが裏目となり、バルザニはこの機をとらえて、第二次蜂起に出る。今度は、自身を王とするクルディスタン王国の樹立を宣言し、政府や軍も発足させた。これは現イラク領であるスレイマニヤを首都とするクルド人初の近代国家となる可能性を秘めていたが、国際的に承認されないまま、24年には英国軍の反撃によりあえなく崩壊した。バルザニは山岳地帯に逃亡してなおも抵抗を続けるが、最終的には独立イラク王国と和平を結んで引退した。

 このようにして、クルド人独立への動きはたちまち英国によって武力で封じられたが、バルザニ蜂起はその後のクルド人民族自決運動の出発点となり、そこからは後にイラクにおける最大のクルド人政党となるクルディスタン民主党創立者ムスタファ・バルザニも輩出する。
 クルド人の最大勢力は新生トルコ領域とイランに残ったが、それに次ぐ勢力が英国統治下のイラクとフランス統治下のシリアに分割編入されることになった。26年の国際連盟決定はイラククルド人に特別な権利を付与したが、形だけのものであった。

 ちなみに、いささか時代が飛ぶが、第二次世界大戦中の41年、ソ連軍のイラン侵攻という特殊状況で再びクルド人国家樹立の試みがイラン領内でなされる。これは当時、枢軸国のナチスドイツに接近していたイランの油田に対する英国権益の防衛と、同じく連合国側でナチスドイツと交戦していたソ連の補給線確保の利害が一致して起きたことであるが、その際に、ソ連軍の支援の下、戦後の46年にイラン北西部のマハーバードを首都にクルディスタン共和国が樹立されたのである。
 この時、ムスタファ・バルザニも共和国防衛大臣として政府に参加しているが、間もなくソ連軍が撤退すると、クルド人の分離独立を容赦しないイランが奪回に乗り出し、翌47年に共和国はわずか11か月で崩壊する。バルザニは58年のイラク帰国までソ連への亡命を余儀なくされる。