歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

土佐一条氏興亡物語(連載第3回)

三 公家大名・土佐一条氏の誕生

 土佐一条氏が、公家から大名に転化していったのは、土佐に疎開した一条教房が現地で晩年にもうけた次男房家の代以降である。彼は教房疎開中の土佐疎開中の文明七年(1475年)、父が50歳を過ぎてから、地元土豪の娘との間に生まれた子であった。従って、父が没した時、まだ幼児であった。
 30歳以上年長の兄政房は応仁の乱の渦中、戦死しており、房家は一条家本家の家督を継ぐ地位にあったはずだが、存命中の祖父兼良の意向により、本家家督は教房の実弟冬良が継ぐこととなった。おそらく、房家の幼年と母の身分素性を忌避してのことだったろう。
 結果、房家は土佐に土着して、土佐一条の家祖となる運命になったのである。小京都の完成は、この一条房家の代のことであり、同時に彼は単なる公家ではなく、応仁の乱後の戦国時代、自らも戦国大名に成長し、中村はその城下町ともなるのである。
 室町時代まで、土佐は細川氏が守護として治める地であったが、元来、守護代細川遠州家も在京しての間接統治であったうえ、細川氏のお家騒動である永正の錯乱(1507年)により、細川氏の支配がいっそう弱体化すると、土佐は地元土豪の割拠するところとなった。
 こうした土豪は俗に「土佐七雄」と呼ばれるが、当初は在京の細川遠州家の下、又守護代の地位にあった大平氏が優勢であった。大平氏平安時代に讃岐守護を任じられて以来、300年以上土佐の地にあった豪族で、縁戚関係のあった一条氏の疎開を仲介したのも大平氏であった。
 一方、管領細川政元との結びつきから土佐で実力を伸ばしていた長宗我部氏は永正の錯乱で政元が暗殺されると後ろ盾を失い、時の当主・長宗我部兼序は大平氏を含む他の土豪勢力の攻撃を受け、敗北した。この時、自害した兼序の遺児・国親を保護し、長宗我部氏再興を助けたのが一条房家であった。
 後年、土佐一条氏が長宗我部氏に乗っ取られることを考えると、このことは歴史的な皮肉であるが、当面、土佐一条氏は長宗我部氏と結んで大名化する一方、房家は公家としても正二位・土佐国司の地位を持ち、「七雄」を超える存在たる公家大名として、土佐の盟主にのし上がっていくのである。