歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

クルド人の軌跡(連載第4回)

二 クルド人の全盛

アイユーブ家の台頭
 中世におけるクルド人地域首長国の中で最も早くに形成されたシャッダード朝はアルメニア西部のドゥヴィンを首都として長く治めていたが、ドゥヴィンは1064年にセルジューク朝に占領され、以後のシャッダード朝は同朝に臣従しながら存続していった。
 中世におけるクルド人王朝として最も成功することになるアイユーブ家はドゥヴィンの有力な政軍エリート階層に属する一族であったが、1130年、ドゥヴィンがトルコ人の武将によって占領されたのを機に、イラクに移住した。
 そして、当時のセルジューク朝治下のバクダード軍務長官の配下に入り、バクダード北西の要所ティクリートの城主を拝命する。しかし、時のアイユーブ家当主ナジムッディーン・アイユーブは、弟のシールクーフがキリスト教徒の官吏を口論の末殺害するという不祥事の責めを問われ、ティクリート城主を罷免された。一族はその後、モースルに事実上独立政権を建てていたイマードゥッディーン・ザンギーの元へ身を寄せた。
 アイユーブは1131年、バクダードを領地とするイラクセルジューク朝の初代スルタンながら暗君だったマフムード2世が死去した後、跡目争いの内戦が勃発した際、セルジューク朝の内紛に乗じて権力を奪回しようとしたアッバース朝カリフの側についていたところ、カリフ軍に破れ、敗走してきたザンギーの逃走を幇助した縁があったためである。
 ちなみに、アイユーブが落ち延びた日の夜に誕生した息子が後にアイユーブ朝創始者となるサラーフッディーンであったとも言われるが、そもそもアイユーブ家のティクリート退去の年が1137年と1138年の両説あり、伝説の域を出ない。
 ともあれ、ザンギーはモースルを拠点にシリアにまたがる事実上の独立王朝(ザンギー朝)を形成しており、その配下に入ったアイユーブはレバノン東部のバールベックの知事を拝命した。しかし、運命は再び転回する。1146年、ザンギーが自身の奴隷に殺害されたのである。
 これを機に、かねてザンギー朝と対立していたダマスカスの事実上の独立政権ブーリ朝がバールベックを包囲すると、アイユーブは降伏し、ダマスカス近郊へ引退した。この後、一族の運命が開かれるのは、ザンギーの子息でシリアのアレッポを相続していたヌールッディーンが1154年にダマスカスを占領した時である。
 この際、アイユーブはヌールッディーンに協力した功績でダマスカスの知事を拝命した。これに先立ち、アイユーブの子息サラーフッディーンも数えで15歳になった1152年、父の下を離れ、ヌールッディーンの重臣となっていた叔父シールクーフに伺候していたところ、父アイユーブの功績により、ダマスカスの軍務長官に抜擢された。
 このように、この時代の中東の複雑な動乱の中で浮沈を繰り返しながらも、アイユーブ家が台頭していくのであるが、アイユーブ家が王家にまで伸長していくには、サラーフッディーンがザンギ―朝の武将としてさらに成長するのを待たなければならない。