歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ユダヤ人の誕生(連載第15回)

Ⅴ ローマ支配から亡国まで

(14)ヘロデ朝の終焉と亡国
 ヘロデ大王は30年以上独裁者として君臨した後、紀元前4年に没したが、彼が創始した王朝(ヘロデ朝)は、初代ヘロデ大王時代を全盛とし、大王の死に際しておそらくは宗主国ローマの意向を呈した大王の遺言により3人の息子の間で分割相続の形となったため、事実上分裂する。
 この3人の息子、すなわちヘロデ・アルケラオス、ヘロデ・フィリポスおよびヘロデ・アンティパスはそれぞれ領地を与えられて分割統治したが、父のように王を称することは許されなかったため、ローマ帝国を宗主とする封建的な分封領主の地位にとどまった。よって、厳密に言えばヘロデ朝はヘロデ大王一代限りで終焉したと言ってよさそうである。
 さて、3人の息子のうち年長のヘロデ・アルケラオスは旧ユダヤ王国の中心部と一族の出身地エドムやサマリアなどの要地を与えられたにもかかわらず、統治者としては無能で、失政を繰り返したことから、領民の訴えにより罷免され、ガリアへ追放された。これにより、旧ユダヤ王国中心部がローマの直轄領に編入されたため、ユダヤ自治も終焉したに等しかった。
 またガリラヤの地を与えられたヘロデ・アンティパスも異母兄の妻であったヘロディアと不倫関係に陥った末に結婚するなどの不行跡があり、ヘロディアの教唆により王位を望んだことで、ローマから危険視され、これも罷免のうえガリアへ追放となった。
 ちなみにリヒャルト・シュトラウスの楽劇『サロメ』の主人公サロメはヘロディアと前夫の間に生まれた娘で、アンティパスとヘロディアの結婚を姦淫として非難したために捕らえられ、斬首された洗礼者ヨハネの首を宴会の舞の褒美として求めたとする伝承の主である。史実性はともかくとしても、アンティパス政権の堕落ぶりを示すエピソードと言える。
 結局、ローマは紀元37年以降、ヘロデ大王の孫に当たり、旧ハスモン朝の系譜も引くアグリッパ1世に上記三分統治時代の各領地のほぼすべてを順次委ね、一本化した。そこで一時的とはいえ、ヘロデ朝が復活した形となった。
 彼は前任者らと異なり、統治者としてはまずまず有能であったと見え、「アグリッパ大王」と称されることもあるが、宗教政策面ではユダヤ教保守派パリサイ派に立脚して、当時広がりを見せていた初期キリスト教信者を弾圧し、イエス使徒らを処刑・投獄した。
 アグリッパ1世が紀元44年に死去すると、ローマはその幼少の子アグリッパ2世に父の地位を継承させず、ユダヤ地方は再び直轄領となった。後にアグリッパ2世もガリラヤ地方の領主に任じられるが、ローマ宮廷で育成された彼はユダヤ人というよりローマ人であった。
 実際、彼は66年に勃発したユダヤ人による最初の反ローマ蜂起(第一次ユダヤ戦争)に際しては、ローマの鎮圧軍に手を貸したのであった。ユダヤはこの第一次戦争でエルサレム神殿を破壊され、敗北したことで、ローマの完全な支配下に入り、以後亡国の時代を迎えることになる。