歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

日光街道宿場小史(連載第1回)

小序

 
 日光街道江戸幕府創始者徳川家康を祀る日光東照宮へ参拝することを目的とする街道として、寛永十三年(1636年)に江戸 - 下野国日光間に開通した特殊な幹線道路である。
 江戸時代に整備された五街道の一つに数えられるが、その特殊性から、日本橋‐宇都宮間は奥州街道と完全に重複し、最狭義の日光街道は宇都宮‐日光間のみという最短の街道でもある。
 また、一般道とは別途、徳川将軍自らが参拝する際に通行する専用道として、中山道と分岐する本郷追分から幸手まで別ルートを辿る日光御成道が存在し、日光街道脇街道を成していた。
 本連載では、奥州街道重複部を含む本道としての日光街道と通常は日光街道とは別に扱われる日光御成道の双方を広義の日光街道に含め、街道沿いの各宿場の歴史を簡単に概観する。

 

一 千住宿

 

(1)由来
 元は「千手」であり、その由来譚には諸説ある。鎌倉時代、浄土宗勝専寺開基の新井政勝の父・政次が荒川で投網していたところ、千手観音像が網にかかったというのが有名な由来譚であるが、多分に説話的である。

 

(2)開発史
 宿場開設以前の室町時代から、荒川・隅田川綾瀬川三河川が合流する水上交通の支点として発達した。御用市場となった千住青物市場は豊臣時代の開設と伝わる。家康が江戸に入部して間もない文禄三年(1594年)に千住大橋が架橋されると、慶長二年(1597年)には人馬継立の地に指定され、奥州/日光両街道の始点宿場町として発展し始めた。

 

(3)最盛期
 天保期には本陣及び脇本陣が各1軒、旅籠55軒が設けられ、宿内の戸数は2370軒、品川、新宿、板橋を合わせたいわゆる江戸四宿の中でも最大の人口1万人近い規模の大宿場町であった。本陣は当初二軒あったが、最終的に秋葉市郎兵衛一軒に集約された。市郎兵衛家は杉戸宿までの本陣五宿総代を務めるほどの実力者であった。なお、千住宿のユニークな家業として、接骨医・名倉家(平氏秩父氏末裔)の明和七年(1771年)開業の診療所が繁盛し、近現代にも西洋医学系の整形外科医院として分家を含め存続してきた。

 

(4)後史
 明治維新後も水運を生かして物流拠点機能を維持した。明治三十年には日本鉄道(後に国鉄常磐線)の貨物支線に隅田川駅が開設され、近代貨物輸送の支点となる。旅客でも明治二十九年に日本鉄道北千住駅の開設に続き、同三十二年には北千住駅東武鉄道伊勢崎線の当時の始発駅となるなど、北関東向け鉄路の起点ともなった。殖産興業との関わりでは、明治十二年に官営被服生地工場として、南千住で千住製絨所が操業を開始した。

 

(5)現況
 東京都荒川区から足立区にまたがる地域として再編され、特に足立区域の北千住はJR、東武鉄道東京地下鉄二線に新興のつくばエクスプレスも集まる鉄道ターミナルとなり、商業的にも発展している。近年は、大学キャンパスも進出して学芸都市化も進む。