歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ノルマンディー地方史話(連載第3回)

第3話 ノルマンディー公国の発展

 
 北欧バイキングに由来するノルマン人の封建的支配地としてのノルマンディーは二代目ギヨーム2世の時代までに明白に形成されていたが、前回見たように、ギヨームがフランドル伯の計略にかかって横死したこともあり、封建領邦たる公国としての基盤固めはいまだしであった。
 ギヨーム1世には、リシャールという一人の遺児があった。母はノルマン人と敵対関係にあったブルトン人捕虜であったせいか、彼の出生と存在はしばらく秘せられていたが、ギヨームには他に嫡子がなく、必然的にリシャールが後継者となった。
 しかし、父が横死した時はまだ10歳で、領地経営は無理であった。この空隙を突いて、西フランク王ルイ4世がノルマンディー回収に乗り出してきたのである。ルイ4世の軍勢は短期間のうちにノルマンディーを占領、リシャールを拘束したうえ、ノルマンディーを分割してしまった。このうち下ノルマンディーはルイの即位に当たって功績のあったパリの大貴族ユーグ大公に与えられた。

 
 こうして祖父と父の二代で固めてきたノルマンディーの所領はいったん失われてしまった。これで終わっていれば、ノルマンディーの地名も現在に残らなかったであろうが、リシャールはノルマン人の旧臣らによって救出されたのである。
 その後、彼はノルマン人やルーツであるバイキングの軍勢を糾合して、ルイ4世に対するレジスタンスを開始する。945年にはルイ4世を捕虜とし、947年までにノルマンディーの奪還に成功した。このレジスタンスの成功に当たっては、後にフランス最初の統一王朝カペー朝の祖となるユーグ大公―ルイ4世とは不和に陥っていた―の助力も大きかった。
 しかし、リシャール自身、まだ10代ながら戦場で勇敢に戦い、怖いもの知らずの「無怖公」の異名を取るまでになった。こうして波乱含みながらも、リシャールがノルマンディー三代目領主のリシャール1世となるのである。

 
 リシャール1世の時から「公」と呼ばれるようになるが、彼の時代にはまだ自称または通称であったかもしれない。しかし、ノルマンディーが厳密な意味で封建国家に成長するのは彼の時代である。彼は同盟関係となったユーグ大公の娘婿におさまったうえ、同名の嫡子ユーグの後見人に指名されていたから、このユーグが987年、晴れてフランス国王に即位したことで、フランス王国との結合は緊密なものとなった。
 一方、リシャール1世は自身の領内各地にバイキング時代からのノルマン系旧臣を代官的な副伯として配し、領地を与えて統治させたのである。これによって、彼は典型的な封建領主としての地位を確立した。
 彼はまた軍事的のみならず、外交的にも手腕を発揮したが、その手段は大勢の娘たちを利用した通婚政策であった。実際、彼は娘を周辺諸侯やアングロ・サクソン時代のイングランド王に嫁がせ、これら諸侯・君主らの義父として影響力を発揮した。

 
 こうしたフランス王国との結合、さらに近隣通婚政策により、リシャールは紛争を避け、領内統治に専念することができた。そして、996年に没するまで40年近くにわたった統治を通じて、ノルマンディーを名実共に公国に育て上げたと言える。
 彼は文化面でも功績を残しているが、その代表的なものがモン‐サン‐ミシェルの修道院である。これはリシャール1世が治世中期の966年にベネディクト会修道院として建立したものをベースに、13世紀までに現在の形に完成されたものである。彼は祖父や父とは異なり、生来のキリスト教徒で、領内のキリスト教化と教会建設にも熱心であった。
 もっとも、修道士によって切り拓かれ、バイキング時代を通じてノルマンディーの発祥とも深く関わった独自の歴史を持つモン‐サン‐ミシェルについては次回、稿を改めて記してみたいと思う。