歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ノルマンディー地方史話(連載第1回)

第1話 ノルマンディーの形成(1)

 
 ルーアンを中心都市とするフランス北西部のノルマンディー地方は、フランスでも独特の地域である。「ノルマン人の土地」を含意するその名の由来となったノルマン人は、元来は北欧バイキングであり、ノルマンディー地方はフランスを寇略したかれらがフランスとの条約に基づきその地の封建領主におさまったことで成立した。10世紀初頭頃のことである。
 それからおよそ1000年を経て、ノルマンディーは、第二次世界大戦での戦況を決する重要な分かれ道となった連合国軍によるドイツ進撃に向けた上陸作戦の場として、再び脚光を浴びることとなった。本連載では、こうした独異な歴史を持つノルマンディー地方のおよそ1000年にわたる歴史を、世界歴史の動きとも絡めつつ、史話として描いてみたいと思う。

 
 冒頭記したとおり、ノルマンディーは北欧バイキングの入植によって成立したのであるが、その契機となったのは初代ノルマンディー公と目されるロロなる人物であった。もっとも、公を冠せられるのは、彼の孫に当たるリシャール1世からであるので、初代ロロは正確にはフランス辺境領主としてのルーアン伯にすぎなかった。
 ロロは北欧ゲルマン系の男子名フロルヴが転訛したものと見られるが、ファミリーネームも生没年、出身地も不詳という半伝説的人物である。この時代の北欧はまだ古代から中世への過渡期に当たり、封建制は未発達であったから、バイキング活動も氏族有力者に率いられて実行されており、ロロもそうしたバイキング首領の一人であった。
 その点、ロロをめぐる有名な逸話として、フランク王シャルル3世と謁見した際、慣例に従い、王の御御足に口づけするよう促されると、ロロはこれを拒否し、同僚に代行させたところ、彼は王の足をつかみ上げて口づけしたため、王が転倒したというものがある。
 これも儀礼常識的には信じ難い半ば伝説化された逸話であるが、フランク王への臣従を拒否するロロの気位とともに、バイキングの間では主人―家臣という封建的身分制が未確立で、指揮官と仲間という緩やかな関係性しか成立していなかったことを暗示させる逸話である。

 
 この逸話の舞台となったのは、911年にシャルルとロロの間で締結されたサン‐クレール‐シュル‐エプト条約の調印式と見られるが、この条約こそ、ノルマンディー地方成立の契機となった画期的な条約であった。これは従来、度重なるバイキング勢力の寇略に十分対応可能な常備軍事力を持たなかったフランク王国と、流民的なバイキング活動に限界を感じたロロの利害関係が一致したことにより成立した条約であった。
 ロロはシャルルの王女ジゼルを妻として与えられ、キリスト教に改宗し、西フランク王国とは良好な関係を保つが、922年にシャルルがクーデターで廃位され、ノルマン人防備で活躍したロベール1世が西フランク王に即位すると、条約が反故にされる恐れが生じた。
 そこでロロは、シャルルを支持して復位のための反攻を助けた。その過程で、ロロのバイキング勢力はロベール1世を戦死させている。しかしシャルルは復位できず、拘束・幽閉され、ボゾン家のラウールが西フランク王に即位する。この状況下で、ロロはラウールと新たに協定を結び、領地をバイユーを中心都市とする西へ拡張することに成功した。

 
 ロロは930年前後に死去したと見られるが、正確な記録は残されていない。形式上、彼は西フランク王の臣下たる封建領主であったが、その領域は事実上独立しており、西フランク側の史料にも十分に記録されなかったのである。こうした分裂的な封建国家は、西欧中世における封建制の象徴であり、フランク王といえども、封建領主中の第一人者というにすぎなかったのである。
 ロロの没年齢も不詳だが、885‐86年のバイキングのパリ包囲戦にも参加していたと見られる彼の推定没年齢は、70乃至80歳前後だっただろう。当時としてはかなりの長生であるが、ロロの生前、ノルマンディー封建領主としての支配はまだ未確立であり、不安定であった。