歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

日本語史異説―悲しき言語(連載第16回)

六 日本語の誕生と発達②

 前日本語としての無文字の倭語から文字体系を備えた日本語への発展を促進するうえで架橋的な役割を果たしたのは、上代日本語の表記に用いられたいわゆる万葉仮名であった。上代日本語とは誕生したばかりの日本語であり、そこにはそれ以前の倭語の特徴が多く継承されている。その意味で、万葉仮名は日本語誕生前の倭語の痕跡を垣間見ることのできるプリズムであるとも言える。
 万葉仮名のユニークな点は、本来表意‐表語文字である漢字の音韻を借用する形で日本語を表記する体系として構成されていることである。言わば漢字をアルファベットのような表音文字化したのである。そのおかげで、上代日本語の音声・音韻を相当程度に再構することが可能となる。

 万葉仮名の研究から判明した事実で最も重要なのは、母音の数である。現代日本語はアイウエオのシンプルな五母音体系であるが、上代日本語はイエオがi e oと曖昧母音としてのï ë öに分かれ、a i ï u e ë o öの八母音体系であったと考えられている。この点では、十母音体系(単母音)の現代コリア語とも近いのは興味深い。
 また上掲八母音の組み合わせに一定の制限法則が存在することも確認されており(有坂・池上法則)、これがアルタイ諸語の共通的特徴である母音調和原則の痕跡ではないかとの指摘もある。
 ちなみに、日本語の大きな特徴である単語の母音終止(開音節)は、上代日本語にすでに認められることから、倭語から継承した相当に古い特徴と見られる。この点は、子音終止(閉音節)を特徴とする現代コリア語とは対照的である。この特徴が倭語の基層にある百済語(その祖語は高句麗語)からの継承であったのか、それ以前の弥生語(南方系)の特徴が混合されたのかは確定し難い。高句麗語・百済語を開音節言語とする説もあるが、推定の域を出ない。

 万葉仮名はかなり壮大な表記システムではあったが、漢字は文字数があまりに膨大であるうえに、音韻にも地方的な相違が少なくないなど、表音文字化するには適さない面もあり、文字体系として確立を見ることはなかった。最終的には漢字を崩して簡略化した平仮名及び片仮名が開発され、これが言わば日本式アルファベットとして定着した。
 しかし、大幅に簡略化されたぶん、平仮名及び片仮名は表音文字としては不完全なものとなり、ï ë öのような曖昧母音を表記するには適さなくなった。そのゆえもあってか、日本語の母音は減数され、現在の五母音体系に確定したのかもしれない。*コリア語は真逆に、曖昧母音の表記も可能な発音記号を兼ねた独特のハングル文字の開発へと進んだ。