二 インドにおける仏教政治
ヴァルダナ朝とパーラ朝
ナーランダ僧院が建立されたのはグプタ朝第4代クマーラグプタ1世の時代のことであったが、その40年に及ぶ治世の末期から、アフガニスタンに興った混成的遊牧勢力エフタルによる侵入に悩まされるようになった。
6世紀初頭には、北インドを占領支配したエフタルのミヒラクラ王による大規模な仏教弾圧が断行された。この事変は仏教的末法思想を生み出すほど、峻烈なものだったようである。ミヒラクラはゾロアスター教徒だったとされるが、エフタルの版図では仏教も庇護されていたことを示す記録もあることから、ミヒラクラの破仏は王の個人的な信条によるものだった可能性もある。
グプタ朝はエフタルの侵略を契機として分裂し、6世紀半ばには滅亡した。その後、北インドでは半世紀以上に及ぶ混乱が続いた後、606年になって、北インドの地方領主から出たハルシャ・ヴァルダナがガンジス河上流域を統一し、ヴァルダナ朝を建てた。
ハルシャ・ヴァルダナはかつてのアショーカ王のように、個人的に仏教に深く帰依し、年に一度学僧を集めた仏教的な学術会議を主宰したほか、5年ごとに大布施会を開催するなど、仏教に理論・実践の両面で多大の後援を行なった。かの玄奘三蔵がインドを訪れたのも、ハルシャ・ヴァルダナ治下のことであり、王は玄奘三蔵の学識に感銘を受け、種々の便宜を図っている。
しかし、ヴァルダナ朝は創始者ハルシャ・ヴァルダナ個人のカリスマ的権威に依存するところが大きく、その内実は封建的分立状態にあったため、継嗣のなかったハルシャ・ヴァルダナが647年に没するとたちまち分裂・滅亡してしまった。
以後は13世紀まで、バラモン教身分秩序における戦士階級クシャトリアの子孫ラージプートを称する諸王朝が群雄割拠する一種の戦国時代に突入する。
そうした中で、8世紀半ばにベンガル地方に興った非ラージプート系のパーラ朝は仏教を庇護し、インド亜大陸における最後の崇仏王朝となった。その第2代国王で自身も熱心な仏教徒であったダルマパーラ王時代に建立されたヴィクラマシーラ僧院は、先行のナーランダ僧院と並ぶ仏教の二大教学機関として栄えた。
ヴィクラマシーラ僧院は特に密教の中心地となり、11世紀に出た僧院長アティーシャはチベットから招聘され、布教活動を行い、チベット仏教に大きな影響を及ぼした。
しかし、10世紀以降弱体化が進んだパーラ朝は、最終的に11世紀後半、ベンガルのヒンドゥー系新興勢力セーナ朝によって滅ぼされた。さらに8世紀以降インドにも到達したイスラーム勢力の攻勢が強まる中、1193年にはナーランダ僧院が、1203年にはヴィクラマシーラ僧院が相次いでトルコ・イスラーム勢力によって破壊された。
以後、北インドではいずれもイスラーム系のデリー・スルタン朝が興亡し、南インドではヒンドゥー系諸王朝が興亡する構図となり、仏教を庇護する王朝はインド亜大陸からは姿を消した。これにより、インドにおける仏教の衰滅は決定的となった。