歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

日本語史異説―悲しき言語(連載第15回)

六 日本語の誕生と発達①

 前日本語としては最終段階、従って日本語の直接的な祖語となる倭語が確立を見るのはおおむね6世紀代のことと考えられる。この時代はいわゆる古墳時代後期に相当し、この間、畿内百済倭王朝は精力的な征服活動によって、その支配領域を大きく拡張し、ヤマト王権へと成長した。
 その際、王権の地方支配機関として機能したミヤケでは当初、中央派遣の長官や役人によって公用語である倭語が地方にも伝えられたと考えられる。後には部民制を通じて地方豪族一族が中央で奉仕するシステムを通じても倭語が地方に拡散されていき、倭語は行政‐経済上ある種のリンガ・フランカとして、方言転訛を伴いつつ、地域における共通語の地位を獲得していったであろう。その点、ミヤケは倭語が共通語化するに当たり、言語政策的な役割も果たしたと考えられる。

 ただ、この時期の倭語は専ら口語であり、なおラングとしては不安定な構造を脱しておらず、行政上も日本では文書行政の仕組みがなかなか発達しなかった関係から、独自の文字体系を生み出すにも至らなかった。6世紀の偉大な大王(オオキミ)であった欽明の頃には大王直属部として史部のような文書部局も設置されたと考えられるが、当時の行政文書類や政治的な碑文などは現存せず、確証はない。
 飛鳥時代以前の確実な文字史料となると、江田船山古墳出土大刀の銀象嵌銘と稲荷山古墳出土鉄剣の金象嵌銘文くらいであるが、いずれも漢文である。この時期の文章語は漢文体であったと考えられる。ただ「獲加多支鹵(ワカタケル)」のように、倭語を漢字で当てる後の万葉仮名の萌芽のような書式の存在は確認できる。

 倭語が日本語へと完成されるのは、形式的に言えば、7世紀の飛鳥時代後期に「日本」の国号を確立した時であるが、実質的に見れば、それ以前の飛鳥時代前期には上代日本語のラングとしての基礎的体系は確立されていたであろう。
 しかし日本語が文章語として記録されるようになるのは、さらに進んで8世紀の奈良時代のことである。この時代になると、ヤマト王権天皇を戴く王朝としての体制を整え、文書行政や文学書・歴史書の編纂などの文治政策が大きく進展したからである。
 もっとも、文章語に欠かせない文字体系に関しては、奈良時代の段階ではまだ、音韻の似た漢字を転用する万葉仮名のような借字であり、仮名といういちおう独自の文字体系を備えた日本語が完成するのは、続く平安時代を待つ必要があった。