歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

仏教と政治―史的総覧(連載第3回)

一 初期仏教団と政治

マガダ国と仏教
 前回も触れたように、釈迦が布教に力を注いだマガダ国があった地方は、当時インドにおける政治経済的な中心地であったが、一方で、バラモン教的身分秩序が弛緩している地域としても知られていた。釈迦の原初仏教団が目を付けたのは、まさにその点であった。
 釈迦の同時代のマガダ国の国情については確実な史料はないが、釈迦が教化したビンビサーラやアジャータシャトルといった諸王はシシュナーガ朝という半伝説的な古王朝に属するとされている。
 ビンビサーラはその5代国王で、当初はライバルだったコーサラ国の内政を撹乱させる目的で、属国シャーキャ国公子だった釈迦の帰城を勧めたが、釈迦が断り、目的を達成できなかったとされる。その後、逆にビンビサーラ王を説き伏せて仏教に入信させてしまった釈迦の術策も相当なものだったようである。
 そのビンビサーラの子がアジャータシャトルであるが、彼は厳しい戒律の必要を進言して釈迦に却下されたことを恨み、反逆して分派形成を図った弟子デーヴァダッタの教唆により、父王を幽閉・餓死させて、王位を簒奪したとされる。だが、その後、悔悟して頭痛に苦しんでいたところ、釈迦の導きで治癒したため、これまた入信し、釈迦没後には盛大に供養したとされる。
 このように、釈迦はマガダ国の生々しい政治にも関与しながら、君主まで教化していくのである。シシュナーガ朝はやがてカースト制度上第四身分(労働者階級)のシュードラから出たナンダ朝によって滅ぼされたとされる。ナンダ朝の成立はまさに旧来の身分秩序の革命的転覆に近い出来事であった。
 ナンダ朝についても確かな史料は存在しないが、ギリシャの史料にはその強大な軍事力・経済力が記録されている。ただ、この王朝の下で仏教がどのような扱いを受けていたかはわからない。ナンダ朝は紀元前4世紀の末に、チャンドラグプタの挙兵によって滅ぼされ、マウリヤ朝が樹立される。
 チャンドラグプタの出自身分についてはシュードラ説とクシャトリア説の両説があり、これも確定できない。ただ、彼は仏教ではなく、仏教とは対照的に厳格な苦行の立場を採るジャイナ教の信者だったとする説が有力である。マウリヤ朝において仏教が隆盛化するのは、チャンドラグプタの孫に当たる3代国王アショーカの時代になってからである。