歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

イラクとシリア―混迷の近代史(3)

[E:one] 英仏分割統治

 英仏は旧オスマン領土のシリア・イラク方面について、戦時中のサイクス・ピコ協定で分割統治を取り決めていたとはいえ、これはなお暫定的な秘密協定にすぎず、その具体化は第一次世界大戦終結後の1920年にイタリアのサンレモで開催されたサンレモ会議に持ち越された。
 同会議で、イラクパレスティナは英国が押さえ、フランスがシリアとレバノンを押さえることが最終的に確認された。さらにフランスはイラク北部モスルの油田利権の25パーセントを得ることも合意された。
 サンレモ会議の合意事項は、さらに21年のカイロ会議で詰められた。ただ、モスルについては23年のトルコ革命後も新生トルコ共和国との間で領有権争いが続き、最終的に26年の国際連盟決定でイラクへの帰属が決定された。

 こうした列強主導の分割統治の策動に対しては、当然にもアラブ側の反発があった。その最初の動きはシリアに現れた。1920年、シリアのダマスカスで開催されたアラブ民族会議はアラブ反乱の指導者フサイン・イブン・アリーの三男ファイサル・イブン・フセインを君主とするシリア‐アラブ王国の樹立を宣言し、イラクについてもフサイン・イブン・アリーの次男アブドゥッラーを君主とする王国の樹立が宣言された。
 これを容認しないフランスとアラブ勢力側との間で武力衝突が起きる。このフランス‐シリア戦争は軍事力で圧倒するフランス側の勝利に終わり、シリア‐アラブ王国はわずか四か月で崩壊した。ファイサルはシリアを追放され、英国へ亡命した。このシリア‐アラブ王国は短命に終わったとはいえ、近代的なアラブ民族主義の最初の発現であった。

 同年には英国占領下のイラクでも反英大反乱が起きたため、アラブ民族主義が自国の勢力圏でも高揚することを懸念した英国は、亡命してきたファイサルを傀儡的なイラク王(ファイサル1世)に擁立する策に出た。一方、先にイラク王に推戴されていた兄のアブドゥッラーについては、委任統治パレスティナヨルダン川東部領域に彼を王とするトランスヨルダン王国(現ヨルダンの前身)の樹立を認めた。
 こうして成立した傀儡イラク王国を通じた英国委任統治メソポタミアの間接支配の仕組みは、22年に締結された英国‐イラク条約で明確にされた。これによると、イラクの内政はイラク王国政府の自治に委ねるが、外交・軍事は英国が直担するというもので、保護国に近い扱いであった。条約には一部イラク人から強い反対もあったが、英国は反対派を弾圧し、24年に批准に漕ぎ着けた。
 この傀儡イラク王国時代の特筆すべき出来事は、27年のキルクーク大油田の発見であった。この発見は翌年28年のいわゆる「赤線協定」による国際的な石油利権カルテル体制の結成を経て、29年のイラク石油会社の設立につながった。
 同社は従前のトルコ石油会社から改称されたもので、英国系のアングロ‐ペルシャ石油会社(現ブリティッシュ石油)など欧米の大手石油資本が共同設立者となった多国籍独占企業体で、イラク人の権利は排除されていた。

 一方、おおむね今日のシリアとレバノンにまたがるフランス委任統治領シリアはイラクとは異なり、大レバノン邦、アラウィー邦、アレッポ邦、ダマスカス邦、ジャバル・ドゥルーズ邦の五つの領邦に細分化された。これはフランス‐シリア戦争を経験したフランスが、シリアの統合を阻むため、当時のシリア・レバノン高等弁務官アンリ・グーロー将軍の指導下で分断統治方式を採ったことによるものであった。
 このうち、アレッポ邦とダマスカス邦は24年に合併してシリア邦となり、翌年にはアレッポ邦に属したアレクサンドレッタ地区(後にトルコ編入)が特別行政区として分立したが、分断統治方針が採られたフランス委任統治領シリアでは独立後もレバノンとシリアの分離は固定されたうえ、それぞれの国でも宗派抗争や政情不安、内戦の元を作ったのである。