歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

関東通史―中心⇔辺境(9)

十 古河公方の「独立」

 京都の室町幕府と鎌倉府が並立する「東西幕府」体制は、第4代鎌倉公方足利持氏が幕府の権威を背景に鎌倉府をもしのぐ実力を備えるに至った関東管領・上杉氏及び室町幕府と対立・敗北し(永享の乱)、鎌倉府がいったん廃止されたことで止揚されたかに見えた。
 しかし、幕府が持氏の息子成氏〔しげうじ〕に鎌倉府の再興を許したことが裏目に出た。第5代鎌倉公方足利成氏が1455年以降、再び上杉氏及び室町幕府と武力衝突した享徳の乱を機に、本格的な東西分裂体制へ移行する。
 成氏は、乱勃発の年に茨城の古河〔こが〕に入り、幕府軍の攻撃で本拠の鎌倉が陥落すると、そのまま古河を本拠地とし、事実上鎌倉府の機能を古河へ移転したのであった。
 享徳の乱は最終的に幕府との間に和睦が成立するまで30年近くも続く関東を舞台とした事実上の東西内戦であった。成氏は配下の忠実な関東武士団を従えてこの長期戦を耐え抜き、1483年、実質勝利に近い和睦を導いた。
 この和睦は「都鄙合体」と称され、表向きは関東の再統合を謳っていたが、成氏は鎌倉に復帰せず、乱の間に新たな基盤を固めていた古河にとどまり、実質上古河府と呼ぶべき統治機構を構築していた。以後、成氏の子孫が古河公方を継承していき、関東における事実上の独立地方政権化していく。
 現在の古河市は栃木県と埼玉県とにはさまれた人口14万人ほどの地方都市であり、一時的とはいえこの地が関東の「首都」だったとはにわかに信じ難いが、成氏がここに拠点を移したことには理由があった。
 最も大きいのは、かねてより鎌倉公方の領地である御料所が鎌倉周辺とともに、古河を中心地とする下河辺荘にあり、ここに鎌倉公方配下の有力武将らの本拠もあったことである。古河は利根川をはじめとする関東の基幹水系が集まる場所でもあり、陸上交通が未発達な時代に枢要な交通手段であった水上交通の要所であったことから、この地に鎌倉公方家が領地を有したことには、経済的な理由もあったであろう。
 ちなみに、後世日本の首都へと飛躍する江戸もこの頃、新興都市として発展を始めていた。江戸は元来、坂東平氏秩父氏から出た江戸氏の本拠地として、開発が始まった。江戸氏もまた鎌倉公方に仕えたが、関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の家宰であった太田道灌に追われ、本拠地を喜多見(現東京都世田谷区)に移した。
 道灌は江戸氏居館跡に江戸城を築城するが、これは享徳の乱で上杉・幕府方についていた彼が戦略上築いたものであった。以後、江戸は関東における物流の中継地として発展し始め、1486年の道灌暗殺後も主家上杉氏が引き継いで、後の繁栄の基礎を築いていった。
 ただ、さしあたり江戸は未来に向けて発展途上の都市であり、しばらくは足利氏が根拠地とする古河が関東の「首都」として東の政治・経済・文化全般をリードする体制が続いていくであろう。

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