歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

抵抗の東北史(連載第11回)

十 戦国時代の東北

 南北朝統一後の室町幕府は東北支配を鎌倉府に委ねたが、鎌倉府が次第に自立化していく中で、東北支配も幕府と鎌倉府とに分裂し、東北支配は混乱していた。その結果、東北地方では早くから有力武将が半自立的に割拠する結果となり、他地域に先駆けて戦国時代に片足を踏み入れていたとも言える。
 応仁の乱を経て、全国的にも戦国時代が到来すると、東北では陸奥の南部氏や二家統合を果たした秋田の安東氏(天正期以降、秋田氏に改姓)のほか、会津の蘆名氏、伊達郡の伊達氏、山形の最上氏などが割拠する。
 このうち、戦国時代に急速に勢力を拡大し、奥州統一の野望を露わにするのが伊達氏であった。伊達氏は元来、常陸に発祥し、通説によれば家祖である常陸入道念西が源頼朝奥州合戦で功績を上げて陸奥国伊達郡を安堵され、伊達朝宗(ともむね)を名乗ったことを始まりとする古い武門であった。家系上は藤原北家流を公称したが、確証はなく、常陸に土着した常陸平氏系とする説や在地豪族説もあり、出自は不詳である。たとえ藤原氏系だとしても、土豪化した地方の傍流にすぎないことはたしかである。
 伊達氏は南北朝時代南朝方に付くも、やがて北朝に帰順し、以後も幕府と鎌倉府の対立の中で京都扶持衆として幕府を支えた。16世紀初頭以降、近隣諸侯と姻戚関係を結んで影響力を強め、東北随一の戦国大名に成長するが、16世紀半ばのお家騒動に端を発した内乱(天文の乱)でいったんは勢力を後退させる。
 この苦境を立て直したのが、あまりに有名な17代当主伊達政宗である。彼は単なる中興にとどまらず、攻撃的な領域拡張作戦を展開し、南の蘆名氏をも滅ぼして、最大領域を支配下に収めた。
 しかし、時は豊臣秀吉の天下であり、秀吉政権は九州地方に続き、1587年には関東・東北にも合戦を禁ずる惣無事令を発令していた。政宗はこれに違反して蘆名氏を討つ結果となったため、秀吉の不興を買い、1590年のいわゆる奥州仕置では大幅な減封処分を受けたうえ、領地替えとなった。一方で、南部氏や秋田氏、最上氏らは所領安堵となり、命運が分かれた。
 しかし、これで無事落着とはならず、東北地方特有の抵抗の精神が発揮される。仕置の結果改易処分となった葛西・大崎両氏の残党が中心となって起こした―背後には伊達政宗がいたと見られている―葛西大崎一揆をはじめ、国人衆や百姓による一揆も続発する。また1591年に秀吉政権が6万の大軍を投入することとなった九戸政実〔くのへまさざね〕の乱の実態は南部氏の家中騒動であったが、まとまりを欠く南部氏は自力で対処できず、秀吉に討伐を要請し、再仕置軍の派兵となったのであった。
 この再仕置をもってようやく東北地方は平定され、秀吉政権による全国統一が完成した。一方、秀吉に臣従し、合戦が止む中で、東北諸大名らも家臣団の再編など統制強化に努め、次第に近世大名としての体制を整備していくのであった。