歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

抵抗の東北史(連載第8回)

七 新東北人の形成と抵抗(下) 

 奥州安倍氏の没落後、その支配を継承して東北随一の豪族となったのは出羽清原氏であった。清原氏安倍氏のように徒に朝廷に反抗的となることは避け、むしろ朝廷に従いつつ、源氏のような武士団としての成長を目論んだ。
 特に前九年の役で功績を上げた清原武則の孫に当たる真衡〔さねひら〕は自らの棟梁の権限を強化し、独断で常陸平氏系の岩城氏から養嗣子を迎え、これに源氏系の妻を娶らせるなど、源平両氏と縁戚関係を築き、権勢を強めた。しかし、こうした真衡の独断専行は一族の内紛を引き起こし、内戦にまで発展するが、彼はその最中の1083年、急死する。
 この清原騒動に介入してきたのが、折りしも陸奥守として赴任してきた源義家であった。彼は前九年の役の際の鎮守府将軍源頼義の息子である。朝廷の命によらず独断で清原騒動に介入した義家の意図は、前九年の役で父の頼義が狙った陸奥守再任を果たせなかった無念を晴らし、この地での源氏の勢力を拡大することにあったと思われる。
 義家は当初は平和的な調停により、真衡の遺領を内紛の重要な当事者でもあった真衡の二人の異母弟・清衡と家衡に分割相続させたが、このことが裏目に出て、今度は両人の間で内戦となった。この内戦は家衡が清衡に仕掛けて始まった。
 実は清衡は前九年の役に際して安倍氏側について処刑された藤原経清〔つねきよ〕の遺児であり、彼を連れて真衡・家衡兄弟の実父・武貞と再婚した経清未亡人の連れ子であった。そんな清衡は源氏にとっては仇敵のはずであったが、自分の調停を反故にした家衡に怒った義家は清衡側に加担して家衡を破り、一連の清原騒動は終結した。
 このいわゆる後三年の役は朝廷から「私戦」とみなされ、義家は恩賞なしのうえ、陸奥守も罷免されてしまう。その結果、義家に助けられて勝利した清衡が新たな奥州の支配者となるが、彼こそが奥州藤原氏の実質的な初代・藤原清衡である。彼が藤原の姓を本家の藤原摂関家から許されたのは、実父の経清が平将門を討った名将・藤原秀郷の末裔と目されたからである。
 経清はおそらく多賀城の官人出身で、安倍頼時の娘を妻に迎え、安倍氏に仕えるようになっていた。彼の死後、未亡人は幼い息子・清衡を連れて前九年の立役者・清原武則の息子・武貞と再婚したのであった。
 この政略的な再婚の結果、奥州藤原氏は新東北人の豪族である安倍・清原両氏を止揚的に継承する存在となり得たのである。清衡は有名な平泉に豪華な政治・文化都市を造営して、奥州藤原氏の長くはない繁栄の基礎を築いた。
 奥州藤原氏清原氏とは異なり、武士団として歩もうとはせず、摂関家縁者として摂関家との結びつきを深め、中央と直結しようとする一方で、自ら「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」などといささか自虐的とも取れる名乗りをしたが、これは実際にかれらがエミシの首領であったというのではなく、当時の東北では半ば伝説化していた俘囚の首領を名乗ることが東北支配を固めるうえではなお有効であったことを示すものであろう。
 ちなみに、奥州藤原氏四代のミイラの形質的調査によると、かれらは京都人型とされているが、これは藤原氏系であれば当然のことである。ただ、清衡の母方から奥州安倍氏の血を引いているため、新東北人の安倍氏に俘囚エミシの血が入っていた限度で、奥州藤原氏もエミシの遺伝子を部分的に継承していた可能性はあるが、それは形質的に発現するほどではなかったのであろう。
 奥州藤原氏は王朝政治の枠内で武家政権を樹立した平氏政権の時代は生き延び、むしろこの時代に重なる清衡の孫・秀衡の時代に全盛期を迎えるが、王朝政治を超克しようとした源氏の時代が到来すると、にわかに終焉した。
 秀衡は平氏打倒後、奥州藤原氏を配下に置こうと迫る源頼朝に対して超然的な態度を取ったうえ、兄・頼朝の追及を逃れてきた義経をかねて手元で養育した好からかくまって、頼朝との対立を決定的にした。
 その最中に病死した秀衡を継いだ嫡子の泰衡は父の遺言を無視して義経を攻めて自害に追い込み、頼朝に恭順の意を示すが、狡猾な頼朝は逆に許可なく保護下の義経を討ったとして泰衡討伐を命じ、奥州合戦に突入する。結局、泰衡は逃亡先で家臣の裏切りにあって殺害され、奥州藤原氏は四代で滅亡した。
 直後に、泰衡の家臣であった大河兼任〔おおかわかねとう〕が主君のあだ討ちを名目に藤原氏残党を率いて大規模な反乱を起こすが、これも間もなく鎮圧され、以後の奥州はしばらく鎌倉幕府の軍政下に置かれる。