歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載最終回)

二十七 徳川家達(1863年‐1940年)

 通常の徳川史は最後の将軍15代慶喜をもって閉じられるが、明治維新後、華族(公爵)の身分を与えられて存続した近代徳川家の祖と言うべき人物として徳川家達〔いえさと〕を無視するのは正当でない。
 家達が出た田安家は将軍を出す御三卿の一つであったが、一橋家支配の中で実際に将軍を輩出することはなかった。家達の父は14代将軍家茂の将軍後見職を務めたこともあり、家茂は死去の際、遺言で家達を後継指名したが、幼年のため幕閣や将軍未亡人和宮の反対を受け、一橋家の慶喜が将軍に就いた経緯があった。
 しかし、明治維新後、「朝敵」とされた慶喜が徳川宗家当主の座を降ろされ、謹慎の身となったことから、当時まだ5歳にもならない田安家当主家達が形式上は慶喜の養子に入り、徳川宗家当主に就くこととなった。皮肉にも、徳川幕藩体制が終焉して初めて田安家の時代が到来したのであった。
 とはいえ、もはや将軍ではなく、家達最初の仕事は根拠地の静岡藩知事という地方長官職であったが、それも廃藩置県で間もなく免官となり、東京へ移った。以後は英国留学など明治期の華族子弟としての英才教育を施された。
 帰国後は、明治二十三年(1890年)から貴族院議員となり、近代政治に参与する。同三十六年(1903年)に貴族院議長に勅任されると、昭和八年(1933年)に任期途中で辞職するまで、歴代最長の五期連続三十年近くにわたり貴族院議長を務め、明治から大正を経て昭和前期に至る日本の議会政治の一翼を担った。
 この間、大正三年(1914年)には、当時の山本権兵衛内閣がシーメンス疑獄事件の発覚により総辞職に追い込まれた後、人心一新のため天皇から組閣の命を受けたこともあった。受けていれば、徳川家当主が約半世紀ぶりに政治のトップに就く形になったはずであったが、この時は徳川一門の強い反対を受け、辞退した。
 貴族院議長は名誉職的存在であるため、家達が直接に政治を主導するような場面はなかったが、第一次大戦後、1921‐22年のワシントン軍縮会議では首席全権代表の一人として交渉に参加した。この会議で日本は海軍主力艦保有比率を英米の6割に切り下げられたことから、「軟弱外交」の批判も浴びたが、これとて実質的な交渉責任者は海軍大臣であり、貴族院議長の家達は権威づけ的な意味合いで参与したのにすぎないので、批判はとばっちりではあった。
 家達は貴族院議長のかたわら、恩賜財団済生会会長や日本赤十字社社長などの官製厚生事業のほか、大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)名誉会長や、戦争のため幻に終わった1940年東京五輪招致成功後の大会組織委員会委員長など国家体育事業にも関与した。
 ちなみに、家達は両性愛者であったようで、妻子を持つ一方で、男性とも性関係を持ち、セクハラ騒ぎを起こすなど、一門が眉をひそめる無軌道な一面もあった。先祖の将軍たちの中にも両性愛者がいたが、武家の「衆道」が特権慣習的に許されていた時代とは異なり、「不祥事」とみなされてしまうのも、近代徳川家ならではの悲哀だったかもしれない。
 ともあれ、家達以降の近代徳川宗家は第二次大戦後、貴族制度廃止により一般公民化されても田安系で継続している(現当主恒孝〔つねなり〕氏は母方を通じて家達の曾孫に当たる会津松平系の養子)。