歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ロマニ流浪史(連載第1回)

エピローグ 


 ロマニは中世以来、中東欧圏を中心に展開する移動民族として、その音楽や舞踊などの芸術的才覚は欧州文化にも大きなインスピレーションを与えながら、最下層の「流浪の民」として、しばしば差別と迫害の対象とされてきた、言わば欧州の不可触民である。 
 かれらは、一時エジプト人と誤認されたことから、エジプト人が転訛したジプシーの名で呼ばれたが、現在ではインドに由来する民族集団であることが判明してきている。
 遺伝子系譜の研究が進展したことで、ロマニの代表格であるバルカン半島ロマニの多くがインド亜大陸スリランカに分布するハプログループHを保有することや、北西インド出身のかなり均質性の強い小さな集団を共通祖先とする民族であることも判明してきた。
 ただ、ロマニがいつ頃、「出インド」したか、またなぜ集団で「出インド」したのかについては諸説あり、判然としていない。しかし、近年の遺伝子研究からは、1500年ほど前に「出インド」した後、900年ほど前に最初の欧州到達地であるバルカン半島に到達したと推定されている。
 「出インド」の理由・動機については、遺伝子は何も教えてくれないが、トゥルク人に追われたという説や、被差別カーストに属しており、新天地を求めたとの説など、様々である。おそらく、永遠の謎かもしれない。
 他方、比較言語学研究から、ロマの祖先は紀元前300年以前という早い時期にすでに「出インド」し、イランに移動していたという説もある。その契機として、アレクサンドロス大王によるインド遠征を想定する向きもある。
 そうだとすると、これはインドのギリシャ人王朝が形成された経緯とは逆に、インド人がバルカン方面へ流れていく契機が同一の事象を起点に作り出されたことになり、真偽はともかくとして、興味深い。
 いずれにせよ、確かなことは、12世紀頃、小アジアに到達していたロマニがバルカン半島に移動し、当初はビザンティン帝国支配下に入り、アツィンガノイ(異教徒)と呼ばれたことである。これを機に、ロマニの欧州への拡散的な移動が開始される。
 その移動の全歴史は、かれらが欧州において常に周縁的な立場にあり続けたため、文献史料の限界から判明していない部分が多いが、本連載では、合理的な推定を交えつつ、ロマニの流浪の歴史について、かれらの独自の文化にも触れながら、概観することにしたい。

松平徳川女人列伝(連載第8回)

十二 お楽の方(1621年‐1651年)

  本名を蘭といったお楽の方は、3代将軍家光の側室として世継ぎとなる家綱(4代将軍)を産んだことで、幕府の存続を保証した重要人物となった。しかも、その生涯は二人の弟たちにも恩恵の及ぶ波乱含みの階級上昇に彩られている。
 お楽の方は下野国の農民から武士に取り立てられたという実父を持つ下級武士階級の出自であるが、この父・青木三太郎利長が問題人物であった。文献上は武士とされるが、農村で農業に従事した郷士身分と思われる。利長は上京して旗本屋敷で仕官したようであるが、使い込みによって解雇され、故郷で蟄居となったが、今度はその地で禁猟を犯し、ついに死罪に処せられた。
 このように実父は不祥事にまみれ、最後は罪人となったため、お蘭は大名屋敷に奉公に出た実母(増山氏)に伴い、再び江戸に出るが、母が商人と再婚したのを機に町人階級となり、養父の稼業の古着屋を手伝っていた時、当時大奥事務方を仕切っていた春日局が通りがかりに目を留め、大奥へスカウトしたされる。そして、しばらくして家光の寵愛を受け、家綱を産むというサクセスストーリーである。
 虚弱で男色傾向もあったとされる家光に何とか世継ぎを作らせようと奔走していた春日局の戦略が的中したわけである。ちなみに、本名のお蘭は音韻が「乱」に通じ不吉であるとして、お楽に改名させたのも春日局の差し金であったようである。
 家光は先にお振の方という側室との間に長女をもうけていたが、男児は家綱が初めてであることから、家光を感激させ、親族にも及ぶ封建的な褒賞として、お楽の方の二人の弟・正利と資弥[すけみつ]も召し出し上級武士に叙した。兄弟は甥の家綱が4代将軍となった後、いずれも大名に取り立てられる栄進を遂げており、こちらも町人から大名へという異例の階級上昇を示している。
 かくして、罪人の子にして一時は町人身分に落ちながら、将軍側室かつ世継ぎの生母となったお楽の方は、家光没後、慣例に従い落飾して宝樹院を号したが、家光没年の翌年に自らも後を追うように没した。
 こうして、お楽の方は新将軍生母として権勢を張る間もなく早生したため、いかめしい宝樹院の法号よりお楽の方で呼ばれるほうがふさわしいようである。生前も世子の生母として発言力を持った記録もなく、慎ましい人物だったようである。
 その点、もう一人の側室で5代将軍・綱吉の生母となった桂昌院とは好対照であるが、二人の弟が上級武士として召し出されるに際して、お楽の方が何らかの口添えをした可能性はあり、全く無欲の人ではなかったかもしれない。

インドのギリシャ人(連載第1回)

 エピローグ


 かつてインドにギリシャ人の王国があった。といっても、紀元前2世紀から紀元1世紀頃までの一時期であり、持続的ではなかった。このインドのギリシャ人たちがどのようにしてインド亜大陸に到達し、植民したかはよくわかっていないが、本国を離れて各地に移住することを厭わなかった古代ギリシャ人のことである。
 それにしても、環地中海域への移住・植民が大半を占めた中、はるばるインドまで到達し、植民した古代ギリシャ人は例外的であったようであり、これが、古代ギリシャ人の植民地としては、現在知られる限りでの東限を成すようである。
 インドのギリシャ人の特徴は、共和的な都市国家ではなく、王を中心とした君主制国家を形成したことにある。そうした点では、インド化したギリシャ人王朝だったのかもしれない。
 このインド・ギリシャ人王朝―文献上は「インド・グリーク(王)朝」と呼ぶことが多いが、ギリシャ人を示すグリーク(greek)という語は外来語として膾炙していないので、本連載では「ギリシャ人王朝」と呼ぶことにする―については、史料も極乏しく、今日では半ば忘れられた存在となっている。
 しかし、痕跡としては残され、インドの文明にも何がしかの影響を与えたようである。しかし、西暦1世紀初頭頃に王朝が滅ぶと、ギリシャ人たちは姿を消し、今日のインドにギリシャ人の血を引く集団はいないとされている。
 ただ、インドの分割独立後、現在はパキスタンとなった領域に居住する少数民族カラシュ人は、アレクサンドロス大王の兵士の末裔であるとする伝承を持つことで知られる。たしかに、かれらの形質的特徴は金髪碧眼が多く、インド系諸民族の主流とは異なっている。
 かれらは、果たしてインド・ギリシャ人王朝を形成した古代ギリシャ人の末裔なのだろうか。それとも根拠を欠くただの伝承なのか。そうだとすると、ギリシャ人たちはどこへ消えたのか。本連載では、こうした興味深い問題も絡めながら、歴史のかなたに埋もれたインド・ギリシャ人王朝の実像に少しでも迫ってみたい。