歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

ノルマンディー地方史話(連載第6回)

第6話 「悪魔公」時代と海外冒険

 
 実兄暗殺の疑惑で始まった「悪魔公」ロベール1世の治世は、不安定なものとなった。とりわけ、教会との関係悪化が問題であった。この時代のノルマンディーの有力聖職者は公家の身内で固められていたにもかかわらず、ロベールは彼らと衝突した。
 その最大の敵は叔父でルーアン大司教兼エヴルー伯のロベール。この同名の叔父は、先代のリシャール3世を支持していため、ロベール1世は報復の意味からもこの叔父に対して兵を差し向け、亡命に追いやった。しかしこの強硬策は高くつき、ノルマンディー公国の破門を招いた。中世封建領主にとっては致命的な制裁である。
 結局、ロベール1世は破門を解くため、叔父の帰国と復権を許さざるを得なかった。その他、ロベール1世は従兄弟のバイユー司教を追放したり、偉大な祖父リシャール1世が再建に尽力したフェカンプ修道院の財産を没収したりと、教会に対してやりたい放題の干渉を企てていた。

 
 こうしたロベール1世の好戦的な野心は、対外関係にも向けられた。久しく安定が続いていた近隣フランドルの内戦への介入や、彼の従兄弟に当たるブルターニュ公アラン3世との衝突はその例である。一方で、宗主のフランス国王アンリ1世とは緊密に結び、母后らとの内紛を抱える王を支援した。
 注目されるのは、ロベール1世が海を越えたイングランドに目を付け始めていたことである。かねてよりノルマンディー宮廷はイングランド王エセルレッドやその息子で後のイングランドエドワードの亡命を受けて入れていたことで、イングランドへの領土的関心を刺激されたのだろう。
 実際、彼はイングランド侵攻を計画したが、風向きのため断念したと言われる。しかし、時のイングランドデンマーク出身の征服者クヌート大王の強力な支配下にあったため、この時期の侵攻はどのみち戦略的に困難だっただろう。

 
 ロベール1世治下のノルマンディーは、再編期を迎えていた。不安定な中で小領主の台頭と対立が激しくなっていのだ。これはロベール1世の求心力の欠如により、祖父と父が築いてきた安定性が揺らぎ、領内の封建的な分裂が増していたことを示している。
 台頭してきた小領主の中には、海外に新天地を求めて冒険に出る一族もあった。遠くイタリアへ進出したオートヴィル家はその一つである。同家はコタンタン半島の片田舎の小領主タンクレードを家祖とする一族で、彼の大勢の息子たちの多くが南イタリアへ渡り、その子孫は後のシチリアノルマン朝を建てることになる。
 こうしたイタリア移住は、時の聖地巡礼ブームとも深く結びついていた。同時に、これらの小領主はおそらくバイキング出自ではなく、土着フランク人に出自する新興領主であったがゆえに、ノルマンディーでは十分な立身と蓄財が保証されていなかったのであろう。そのことも、移住を促進したと考えられる。

 
 聖地巡礼に関しては、当のロベール1世も並々ならぬ関心を抱いており、自身エルサレム巡礼に旅立ったのである。しかし、この長旅は吉と出なかった。彼は念願のエルサレムに到達したものの、帰途ニカイアで発病し、没してしまったのだ。
 この時まだ35歳、残されたのは8歳の庶子ギヨームであった。ロベール1世はこの時点でいまだ正式に結婚しておらず、嫡子がいなかったが、巡礼に出る前、ギヨームを後継者に指名していたおかげで、急な客死という非常事態にもかかわらず、公位継承はスムーズに行なわれた。
 とはいえ、幼年の庶子の即位という異例事態は、ノルマンディー公国の命運に暗雲を立ち込めさせるものではあった。長じたギヨームはそれを「イングランド征服」という歴史を変える大冒険によって切り抜けていくことになるのだが、これは次回の主題である。