歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

高家旗本吉良氏略伝(連載第5回)

四 吉良義堯(生没年不詳)/義昭(生没年不詳)

 
 応仁の乱を経て、16世紀の戦国期に入ると、吉良氏本流西条吉良氏の凋落は色濃くなり、義真の子義信から先、数代にわたって生没年不詳者が続く。それでも、義信とその嫡孫義堯までは京都で将軍足利義稙側近者としての活動が記録されているが、義稙の失権に伴い、失墜したようである。
 そうした中、義堯の代になると、吉良氏分家の駿河今川氏がいち早く戦国大名化し、実力をつけてくる。今川氏は吉良氏家祖長氏の次男国氏を始祖とする一族であり、9代氏親の時、戦国大名としての基盤を固める。氏親は野心的な領国拡大を志向し、吉良氏が領した遠江引馬荘にまで攻め込み、これを侵奪したのだった。
 今川氏側では「御所(室町将軍)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」という序列意識を持っていたとされるが、戦国期に入ると、こうした序列意識も逆転し、今川が吉良を飲み込むようになる。
 実際、今川氏は吉良氏の再統一も工作した。この頃、義堯の次男義安が分家の東条吉良氏の家督を継ぎ、三男義昭が西条吉良家を継ぐ形で東西吉良氏統一の機運が起きていたところ、今川氏と敵対する織田氏に加担したことから今川方に拘束された義安を廃し、今川氏に協力的な義昭を東西吉良氏の統一当主として立て直したのである。
 その狙いが吉良氏を今川氏に服属させることにあったのは言うまでもなく、こうして分家が本家を乗り超えるのも、戦国的下克上であった。しかし、時の今川氏当主義元が有名な桶狭間の戦い織田氏に敗れ、今川氏が没落すると、吉良氏に独立機運が訪れた。
 ところが、吉良氏はこの機を生かせず、代わって三河で実力を伸ばしていた若き松平(徳川)家康の軍門に下ることとなった。永禄六年(1564年)に三河一向一揆が勃発すると、義昭はこれに加担し、反家康ののろしを上げたが、一揆の鎮圧により、これも失敗に終わった。
 三河を追われた義昭は近畿方面へ逃亡し、摂津で客死したとされる。ただ、今川氏の捕虜となっていた時代に、同じく今川家で人質生活を送っていた家康と親交を深めていた義安が改めて吉良氏当主として認められ、どうにか存続を許されたのは救いであった。