歴史の余白

内外の埋もれた歴史を再発見するブログ

私家版松平徳川実紀(連載第7回)

六 徳川家康(1543年‐1616年)

 今さら言うまでもない徳川宗家の創始者である。彼は先代松平広忠の唯一の男子として生まれたが、彼が生まれた時期の松平氏は歴史上最も苦境の中にあった。広忠の項でも述べたとおり、幼少の家康は今川氏の人質として移送される途中、織田氏に略取され、しばらく尾張に拘束されるも、間もなく捕虜交換の形で今川氏側に移される。
 そのため、彼は今川氏家中で育成されることになるが、その待遇は決して悪いものではなかったとはいえ、家格の違いから慇懃な軽侮を受けていた。そのことも、彼をして早期に今川氏離脱、本来は敵方織田信長との同盟に走らせたのであろう。この選択は間違っておらず、三河の再統一に成功し、さらに信長の知遇を得て有力戦国大名へのし上がるチャンスとなった。
 その後、豊臣秀吉家臣となってさらに躍進を続け、最終的に幕府を開くまでの軌跡はあまりにもよく知られているので、繰り返すまでもなかろう。ただ、その事績は戦国大名としてのそれと開府後の統治者としてのそれとに分けてとらえることができる。
 戦国大名としての家康の成功要因は、彼が武略・知略・強運という戦国大名に必要な三要素すべてを備えた冷徹な人間だったことにあった。その性格は、信長の不興を買った長男に切腹を命じ、次男は豊臣氏の養子に出すという継嗣断絶につながりかねない決断すら辞さなかったことにも表れている。
 そうした冷徹さは政権に就いた後も変わらなかった。実際、家康が体制固めのため旧主家の豊臣家を滅ぼした過程を見れば、その狡猾さと残酷さはまさしく戦国大名そのものであった。
 家康の統治者としての時期は大御所時代を含めても長くないため、その評価はやや難しいが、幕藩体制の土台となる大名知行制や朱印船による管理貿易などは前代の豊臣政権からの継承であり、家康独自の政策は乏しい。
 彼はこの時代の封建支配者の例に漏れず、父権的・権威主義的ではあったが、信長や秀吉のような独裁者ではなく、松平氏の伝統であったらしい合議を重視した。
 江戸幕府統治機構松平氏の家政機構を引き継いで「庄屋仕立て」と揶揄されるほど簡素なものであったが、これは官僚的セクショナリズムが蔓延するのを防いだ。官僚制が未発達なため、将軍が代われば幕府高官も多く入れ替わり、体制内でプチ政権交代が起きるような構造であった。このことには体制を護持しながら失政の早期転換を可能にする効果もあっただろう。
 家康は長男を自刃させ、次男を養子に出してもまだ後続の男子に恵まれ、そこから家系の持続性を保証する多くの分家を輩出した点では、松平氏の史実上の家祖である松平信光のような人物でもあった。彼は祖父の清康が名乗り始めた源氏に連なる新田氏系世良田氏得川氏の名乗りを改めて行い、「徳川」の氏族名を案出して、家系を飾ることも怠らなかった。
 家康が、源氏系足利将軍家の子孫として残っていた喜連川頼氏が関ヶ原に参陣しなかったにもかかわらず、主従関係を結ばないまま事実上の大名格として下野に喜連川藩を立藩させ、御所号をも認めて厚遇したのも、こうした源氏系仮冒と連動した政策であったのであろう。
 一方、皇室との関係では、孫娘の和子(次男秀忠五女)を後水尾天皇中宮に送り込む手筈を整え、幕末とは逆向きの「公武合体」を目論んだ。和子入内は諸事情から家康没後に延期となったが、後に和子の娘が明正天皇として即位したことで、家康の血統は皇室にまで注入された。